第四章 エピローグ 約束の海は遠く(3)

 


 ジェムの肉体は甲板に倒れていたが、主檣の見張り台よりも高く浮かび上がったジェムの意識は上空から私略船が沈み行くさまをしっかりとその目に映していた。真っ二つに折れた船体が見えない手に引きずり込まれるように海中に没する様を。そして、私略船の船員たちが海中に投げ出されて渦巻く海流に飲み込まれていく様を。
 ジェムは悲鳴を上げたかったが、ジェムの喉は張り付いたように言葉を発することを拒んでいた。ただ声にならない叫びがジェムの心を、感情を振わせていた。
 そして唐突に、意識だけで浮かび上がったジェムの目の前も真っ暗になった。ジェムはすぐに自分が気絶したのだと思った。実際にはジェムの身体は甲板の上で意識を失っていたのだからそれもまた間違いではなかっただろう。けれどジェムの意識は眠りの闇の中に落ちたのではなく、暗く静かな場所に浮かんでいた。
 そこはどこまでも広く、けれど何も見えず何も聞こえない。呆然とするジェムの耳に、やがてどこか遠くから声が届いた。
(――あぁ……、まさかこんなことになってしまうなんて、思っていなかった……)
 それはどこまでも豊かで穏やかな、胸打たれるほどに暖かな声だった。だからこそ、こんな風に悲痛に染め抜かれたような声を出させてはいけないと、ジェムは反射的に胸に苦しさを感じた。
 これと同じ声をいつかどこかで聞いたことがあるように、ジェムは思った。懐かしく、愛おしい声。姿は見えずとも、その声の主が持つ優美さと心の温かさがありありと分かるような声だ。だけどジェムにはそれが誰で、いつ聞いた声なのかと言うことはさっぱり分からなかった。
(私はなんと恐ろしいことをしてしまったのでしょう……)
 声の主は深い嘆きに囚われている。悔恨と悲嘆に暮れ、静かに涙を流している。
 ジェムは慰めの言葉を掛けたいと切に思ったけれど、底なし沼にも似た果てのない悲しみにかける言葉は思い浮かばなかった。
(私がしでかしたのは、もはや取り返しのつかないことなのかも知れません。だけれど、だからこそ……私は責任を取らなければならないのでしょう)
 ジェムは思わずぎくりと身を竦ませる。穏やかで優しかった声。それが潮の満ちゆく海辺のごとくゆっくりと、しかし明らかに狂気へと蝕まれているように感じられたからだ。
(苦しむ者がいるでしょう。悲しむ者もいるでしょう。それでも私は……)
 声は徐々に遠ざかる。どこまでも深く底知れない悲しみを残して、ジェムの意識は静かに浮かび上がっていった。


 ふと目が開くと、そこには青空と心配そうに自分を覗き込む見知った人々の顔があった。心配そうに顰められた顔が、自分の目覚めに気付くと共に喜びに染め替えられるその様子を、ジェムはどこかこそばゆく思った。
「ジェム、良かった! 目を覚ましたのね!」
 上体を起こしかけた身体を再び甲板に沈めようとするかのように、フィオリがジェムに抱きつく。慌てるジェムを可笑しそうに笑いながら見ているシエロが視線の端に映った。
「あのっ、あれからいったいどうなったんですか? 私略船は?」
 顔を真っ赤にしながらフィオリの身体を押しのけつつ、ジェムは開口一番にそれを尋ねた。答えたのはやはり同じようにすぐ側でジェムの目覚めを待っていたエジルだった。
「私略船は海に沈んじまいやしたぜ。今頃、海軍の兵隊さん方が救助に明け暮れてる最中じゃないかねぃ」
「私略船に乗っていた人たちは、全員助かりますよね……?」
 ジェムは窺うように上目遣いにエジルを見る。エジルは少し困ったように言葉を選んでいたが、結局は率直な答えをジェムに返した。
「沈没の勢いが予想以上に早かったからね。場合によっては助からない乗組員も出てくるかもしれないねぃ」
 ジェムは顔を青ざめさせ俯く。それを慰めるように、エジルがジェムの肩を優しく叩いた。
「なぁに、海軍の船があんなに取り囲んでいるんだ。兵隊さんたちも尽力してくれてるだろうから、よっぽど運が悪くない限りは全員救助できまさぁ」
 けらけらとエジルが笑う。その横ではフィオリもどこか呆れた顔をしていた。
「あんなひどい奴らの心配までするんだから、ジェムは本当にお人よしよね」
「い、いえ。そういう訳ではないんですけれど……」
 ジェムは思わず言葉を濁す。
「それで、いま船はどこにいるんですか? もうさっきの海域からは離れているんですか?」
「その通りでさぁ。《イア・ラ・ロド》は今、デザイア島の港を目指しておりまさぁ」
「でも、どうやって走っているんですか?」
 ジェムは思わず目を丸くする。確か私略船の攻撃で船の主檣は折られてしまったのではなかっただろうか。
「そんなの見れば分かるでしょう」
 どこか呆れたようなフィオリの声に誘われるように、ジェムは視線を上げる。するとそこには三角形の小さな帆が二本、折り重なるように船の上を渡されていた。
「非常事態用の補助帆らしいわよ。風の精霊に頼んで、目的地まで最速で向かってくれてるんですって」
 ジェムは納得した。あのままでは海軍の軍艦に曳航してもらうしかないだろうと思っていたが、海賊船である《イア・ラ・ロド》にとっては、それは断固として避けたいところだったのだろう。なにしろそのまま捕まってしまう可能性だって充分ある。いや、それ以外は考えられない。
「ジェム、目を覚ましたのならこっちにおいで」
「あの、なにかあったんですか?」
 エジルに手を貸してもらいながら、立ち上がったジェムは彼にたずねる。その言葉にエジルはいつも以上に真剣な眼差しでうなずいた。
「その通りでさぁ。今から、元・操舵手殿の処罰が発表されるらしいんでさぁ」
 ジェムは思わず息を飲んだ。


 甲板は心地よく吹く海風や、照りつけてくる眩い太陽の光が不似合いに思えるほど重苦しい沈黙に包まれていた。
 船内の人間のほぼ全員が集められているその場所で、彼らに取り囲まれていたのは椅子に腰掛けている一人の男性だった。
 彼は身体が辛いのか、背もたれに寄りかかりほとんど肘掛にしがみ付いている形だ。それもそのはず。彼には両足とも膝から下が存在していない。大きな怪我を負ったばかりの身ではこうして身体を起こしているだけでも辛いはずだから、それも当然だろう。もっとも僅かに俯き加減ではあるものの、彼の視線は強く凛とした表情を浮かべている。それは私欲からではないとは言え、罪を犯し仲間を裏切った人間とは思えない殉教者めいた眼差しだった。
「それじゃあ、この誇り高き海の貴族〈イア・ラ・ロド(夜の魚)〉の船長として、グレーン・キニアスへの処罰を告げるぞ」
 常になく真剣な表情を浮かべたダリアが、グレーンの正面に立つ。
 ダリアの口は堅く引き結ばれ、ほとんど睨みつけるようにグレーンを見下ろしていた。
 ダリアにとってグレーンは誰よりも長い間連れ添ってきた仲間であり、そして兄同然の相手だ。そんな人間を裁かなければならないダリアの心中を思いやって、ジェムは胸の痛みを感じた。
 グレーンはダリアの顔を見た一瞬、苦しげに目を閉じた。その直後にはもとの覚悟を抱いた表情に戻ったが、それでもその一瞬でグレーンの気持ちは知れ渡ったも同然だった。
 ダリアはしばらくの間グレーンを黙ってみていたが、遂にその口を開いて朗々とした言葉を響かせた。
「操舵手グレーン・キニアス。お前に下される罰は降格処分だ。操舵手の任を解き、一船員となることを命じる」
「なっ……!?」
 グレーンがぎょっとして顔を上げる。ダリアは悪戯を成功させた子供のような顔でふふんと鼻を鳴らした。
「異議は受け付けないぞ。もう決まったことだからな」
 ジェムもまた驚きを隠しきれない表情で、辺りをきょろきょろと見回した。だが周りの船員たちの誰一人として、船長の下した処罰に文句を唱える者はいなかった。
「し、しかし通例では……っ」
 狼狽するグレーンに、ダリアは聞き分けのない子供を相手にしているようなうんざりした表情をわざとらしく浮かべている。
「ああ、確かに通例では裏切り者は利き腕の腱を絶った上で無人島に置き去りにするんだったな。だがな、今回の処罰は全員の投票で決定されたんだ。この船ではな、グレーン。通例よりも乗組員全員の総意の方が優先されるんだよ」
 グレーンは呆気にとられた顔で自分を取り囲む船員たちを見る。彼らもまた、にやにやと、してやったりという笑みを浮かべていた。
「今回は、全員がちゃんと先の事まで考えた上で投票したからな」
「そうそう。まわりに流されて適当に決めたわけじゃねえもん」
「大体グレーンの兄貴がいなくなったら、いったい誰が船長の手綱を握ることができるんだよ」
「それに伝書鳥だって、グレーンの言うことしかきかねえしな」
「お前ら……俺と伝書鳥を同列に扱ってんじゃねえよっ」
 顔を真っ赤にしたダリアが船員たちを怒鳴りつける。そして赤い顔のままちらりとグレーンに視線を向けて、ふいっとそっぽを向いた。
「ようするにだ。俺らはお前がいないと困るんだよ。俺だって……お前が口うるさいお袋みたいに、先のことまで考えてくれた方が助かるんだ。もちろんお前がいなくたって、ちゃんと考えて行動するけどよっ」
 けれど、そうして口々に投げかけられる言葉にグレーンは何ひとつ答えることはなかった。
 グレーンは深く俯き、肩を震わせていた。足があるべきその場所に一滴の小さな涙が振り落ちたのを、しかし誰も声に出して指摘しようとはしなかった。