第四章 B 影と騎士 〜示唆〜(1)

 


 ――海大神殿。

 それは最南の海域ギュミル諸島に存在し、十海を統べる偉大なる王バロークを祀った神聖なる社である。
 世界の規律を正し、神の教えを広めるという五大神殿のひとつに数えられるその場所は、しかしその有様からして他の四神殿とは大きく異なっている。

 まずひとつはその神殿の長たる大神官が世襲制であるということ。

 いまや大神殿ばかりでなく多くの神殿が個人による専横を防ぐため、神官長を前任者による指名の他、話し合いや投票といった形で選んでいる。
 だが海大神殿だけはいまだ伝統的に、ある一族が代々その任を受け継いでいるのである。

 そして、それに呼応する形でもうひとつ。
 他の神殿が属する大陸の政を国、あるいは民に任せているのに対し、海大神殿だけは大神官による直接的な統治が行われているのである。

 すなわちこの地において大神官とは、祭りごとを司る者――祭司であると同時に、政をも請け負った皇族なのだ。

 


 

 神への祈りを捧げる大聖堂の前には大振りの槍を掲げた武装神官が、猫の仔一匹通さぬと言わんばかりの厳戒態勢でたたずんでいた。
 彼らは並みの傭兵などでは相手にならぬ屈強そうな体躯を持っている。それは神官という言葉から思い浮かぶ、物静かで慎み深く敬虔深い姿とは似てもにつかない。

 しかしそれもその筈で、海大神殿の祀るバローク神は生命を司る海神であると同時に戦神でもある。闘いの神を主神に据えるギュミル諸島において、強さとはすなわち美徳なのであった。

 そのため、この海大神殿の中には他の神殿に比べれば武装神官や僧兵が多く詰めている上、神殿騎士団と呼ばれる組織が鉄壁の護りを敷いている。
 本来ならば身元の怪しい人間が、その中に忍び込むことは至難の技だろう。たとえ修道士、神官の姿に扮しようと、その鋭い猜疑の眼差しからけして逃れることはできない。それくらい彼らは優秀な守護者なのだ。

 だが北の大陸からやってきた間諜パスマは、誰に見咎められることなくそこ、大神官の居場所までおもむく事ができた。いや、見咎められる所の話ではない。
 確かに彼らイルズィオーンの民は間諜、密偵としては他の追随を許さないほどの能力、技術を持っている。だからその手腕を余すことなく発揮すれば、容易にとは言わないがこの海大神殿に忍び込むこともけして不可能では無い。
 だが今回に限っては、パスマはその能力をいっさい用いる必要が無かったのである。


 

「ここに大神官様がいらっしゃいます」

 入り口を守る武装神官よりはだいぶ細身であり、一般的な神官像に近い印象の案内役は、そう言って穏やかにパスマに声を掛けた。労うような言葉にはまさしくいたわりの思いが込められている。

「長い旅路をご苦労様でした。わたくしどもの長、海大神殿の大神官とようやくお会いになれますよ。東の神殿の使者殿」

 パスマは若干躊躇いがちに、しかし無言でその言葉にうなずいた。
 なにしろ本来世界の表舞台にけして出ることが無いはずのこの影は、樹大神殿から正式な任命を受けた、本物の使者としてこの場にいるのである。

「どうぞお進みください」

 丁寧な武装神官の礼を受け、パスマは揺るがぬ足取りで敷居を跨ぐ。その途端、びらびらとした長い裾をうっかり踏みつけてつんのめりそうになるが、そこは鍛え抜かれた平衡感覚でなんとか堪えた。
 いぶかしむような案内役の視線にもそ知らぬ顔をする。

 扉を潜った先は広々とした明るい空間だった。
 そこには壁というものが無く、天井を支える柱と柱の間からは青々とした水を湛える大海がどこまでも広がっているのが見える。もともとこの神殿は海の上に張り出した形で建てられている。たぶんこの床の下も海なのだろう。

 陽光に加え、海からの照り返しが注ぎ込む眩しいほどに明るいその部屋にいたのは、一人の老人だった。もっとも彼を老人と呼ぶには、その印象はかなり若々しい。

 生来の肌色の濃さに加え、その人生と同じだけ日に焼けた肌は加齢による衰えはあるものの、てかてかと健康そうな赤銅色に輝いている。
 漆黒のその目も見るものすべてを威圧しかねない力強さがあったが、それを小気味の良い軽快さが打ち消していた。

 この老人こそが、エカイユ・シアーズ・マーガリタ。
 七十四代目の海大神殿の長、大神官であり、ギュミル諸島ノート島の治世者。そして海大神殿史上稀に見る優れた大神官として名を馳せた男であった。

 

   ※  ※  ※

 

「ようこそ、お客人」

 大神官は腕を広げて朗らかな態度でパスマを迎え入れる。
 太く豊かな声音、親しみにこもった様子に、パスマは思わずびくりと肩を震わせた。疎まれ、嫌悪され、蔑まれる。そうした存在である事を当然としてきたパスマは、好意的な眼差しを向けられるのに慣れていない。

 それに気付いたのか、大神官はそっと笑みを深めてパスマから視線を外した。

「君、お茶の準備は程ほどでいいから一度席をはずしてくれないかい。せっかくのお客人だ。腹を割ってゆっくり話がしたい」

 そう声を掛けられた若手神官は、しかしその途端なぜだかひくりと顔を引きつらせた。奥にある大神官の控えの間でもてなしの準備をしていた彼は、慌てた様子で首を振る。

「いえ、エカイユ様。二人きりにされてしまう方が使者様の緊張は高まってしまうのではありませんかね」
「そんなことは無いでしょう。むしろ先方には内密にしなければならない話だっておありでしょうし」

 意味ありげな視線を向けられて、パスマは大神官がある程度の事情を察していることに気が付いた。たぶんすでに樹大神殿からの先触れの親書が届いていたのだろう。

「……分かりました。ですが、とにかくお茶の準備だけはさせていただきますよ」

 若手神官はまさしく不承不承と言った態度で、もてなしの仕度を素早く整えていく。

「わざわざ樹大神殿からこんな遠いまで、ようこそいらっしゃいました」

 先程の案内役の神官の言葉と同じように、大神官もまた穏やかな眼差しでパスマを労った。年を経て円熟味を増したその態度は包容力と安心感を持って人の心を和ませる。
 そうした感情を受け入れるか否かは別としても、その事はイルズィオーンの駒であるパスマですらたやすく感じ取れるものだった。
 さすがは有能として名の知れた大神官、人心を掌握する術を身に着けている、とパスマは素直に感心した。

「あまり緊張をなさらずに、お互いざっくばらんに話しましょう。私も久々に旧知の友の話をゆっくりと聞きたい」

 落ち着いた笑顔で大神官がパスマに声を掛けると同時に、もてなしの準備を終えた若い神官がそっと扉を閉めて出て行った。

 大神官はちらりと目をやり彼がいなくなったことを確認する。そしてそれを待っていたように、一言こう言った。

「って言うかよう。ちょっとこれ脱がさせてもらうぜ。さすがにもう暑くってたまらねぇや」

 浮かぶ笑顔はそのままに、大神官はいきなりのべらんめえ口調で大神官の正装であるローブを脱ぎ捨てたのだった。


 

 

 パスマはぎょっとして目を見開いた。大神官はその下に袖なしの黒い肌着を着ており、枯れてもなお力強い筋肉質の腕が見て取れる。若い頃は勇猛果敢な戦士だったと言うのもうなずけるが、問題はそこではなかった。

「ったく、うちの若えもんは口煩くて敵わねぇや。客人が来るんだから、きちんとした格好してくれないと威厳が保てないとか何とか抜かしやがる。だがよ、威厳なんていうのは適当に偉ぶってれば、向こうが勝手に感じ取ってくれるもんだろうがよ」

 なぁ、と同意を求められるが、なんと答えたものだか分からない。困り果てた様子にパスマに大神官は呵呵大笑に声をあげた。

 先程までの落ち着き払った態度の大神官の姿は何処にも無い。威厳も何も吹き飛び、見た目も言動もいいとこ田舎漁師の顔役である。
 確かに素がこれでは、あの若手神官が不安がるのも無理は無いだろう。というか大神官として以前に、一国の元首として本当にこれでいいのだろうかと心配にもなってくる。

 大神官は供宴の準備が整えられたテーブルに乱暴に腰掛けた。

「ほれ、お客人も座れや」

 そううながされ、パスマは椅子に座る。

「エカイユ大神官。自分は樹大神殿の使者として貴殿に新たな大神官からの書状を――、」
「あー、そう言う固っ苦しいのは後でな、後で。今はともかく飲もうぜ」

 そう言って大神官は手ずから机の下にあった徳利の中身を器に注ぐ。本来用意された飲み物は茶や果実水など昼の宴に相応しいものばかりであるため、たぶんその徳利は大神官が自分でこっそりと用意しておいたものなのだろう。
 差し出されたものを受け取ると白濁色のその液体からはぷんときつい酒の匂いが漂ってくる。酒に弱い者ならばそれだけで酔っ払ってしまいそうだ。

「なんでぃ。酒も飲めねぇとはなさけねぇな」

 けして酒に弱い訳ではないものの、思わず顔から器を遠ざけたパスマに彼は情なさそうに言う。そう言う大神官は徳利に直接口をつけ酒をあおっていた。

「別にそんなナリをしていても、禁欲を誓って神に仕えてるわけじゃねぇんだろ。なぁ、修道女さんよ」
「……是」

 パスマはどこか憮然とした調子で呟く。それは普段どおり愛想もそっけもない口調であったが、それでも今ばかりは本来の性別を隠すことはない。
 なにしろパスマが今現在身にまとっているのは、修道女が着る尼僧服であったからだ。

 もちろんさすがに聖職者とは言え、修行中の人間がまとう衣服である。装飾の類いはほとんど存在しない。しかし無駄に裾が長く、しかもひらひらとしたスカートや布地の多い身衣などは、動きやすさ、機能性のみを重視した衣服ばかりを普段身につけているパスマにとっては多分に違和感に事欠かない。

 同じ僧服でもせめて男物であればまだましなのだが、これを貸し与えた相手は修道女の服でなければ絶対に貸さないと言い張り、結局こうなった。
 まぁ、怪しまれないための変装と思えば、パスマにはけして耐えられないことではないのだが。

「あれだろ、それアルシェの奴に着せられたんだろう」

 別段隠さなければならないことでもないのに、パスマは思わず図星をつかれたようにぐっと息を詰まらせた。

「けけっ。大当たりか。やっぱりなぁ。好きそうだもんなぁ、あいつはそういうのが」

 エカイユはにやにやと笑い、言い当てた真相に満悦そうな様子だ。

 自分の何が『そういうの』で、何が『好き』という感情を想起させるのか。人の感情の機微に疎いパスマにはさっぱりだがともかくロクなことではないということだけは分かった。
 次に会ったときは、あの樹大神殿の大神官を一度絞めておくべきかもしれない。パスマは真剣にそれについて思案した。

「しかしあのガキがとうとう樹大神殿の大神官かよ。まったく俺も年を取る訳だぜ」

 エカイユはしみじみとそう呟く。

「まぁ、あいつと初めて会った時には俺はとっくにジジイだったんだけどな」

 そう言ってエカイユはまた爆笑する。

 その姿はやはりどうみても近所の親爺そのもので、威厳どころか品すらない。パスマはこの老人が本当に名高い海大神殿の大神官なのかどうか不安になった。

「あいつはよく表敬訪問やなんかで俺のところに顔を出してきてよ。まぁ最初は猫被ってたんだが、そのうちすっかり意気投合しちまってよ」

 確かに猫被りの技術に関しては、双方たいしたものである。本性を見出せば、気が合うのも分かる気がする。
 パスマはそうした大神官の話に素直に耳を傾けていたのだが、しかし話題はいつまで待ってもいっこうに本題に入る気配がなかった。

 取るに足りない世間話をどれだけ聞かされたことだろう。これ以上相手に合わせているといつまでたっても始まらないと、さすがに業を煮やしたパスマは預かってきた手紙を無言で差し出した。

 樹大神殿からの書状。
 それを海大神殿の大神官に渡す使者としての役割を、パスマは担っていた。
 もっともそれは疑われること無くこの海大神殿に入るために作られた、表向きの理由でしかないのだが。

「ああ、それあれだろう。新任の挨拶」

 大神殿同士でやりとりされる正式な書状をエカイユ大神官はあっさりと受け取ると、ばりばりと無造作に封を剥がして中身を眺めた。
 五大神殿の長である大神官が変わったとき、新しい大神官はその旨を他の四神殿に伝える書状を送るのが慣例となっている。

「まったくあいつも外面ばっかり立派でよぅ」

 優美かつ流麗に型式を整えられた文面を不謹慎にもけらけらと笑いながら目で追っていたエカイユだったが、しかし彼はふいに真剣な眼差しをパスマに向けた。

「んで、本題の手紙はどれだい」

 はっ、とパスマは息を飲む。

「こんなんは単なる上っ面のやりとりだ。本命は別にあるんだろう」

 エカイユの目には、もはや単なる田舎親父にはない鋭い眼差しが宿っていた。

「お前さんが来る前に、急ぎの書状が俺んとこに届いた。それはこれから届けられる二通の書状を間違いなく俺自身の目で読んで欲しいと言うものだった」

 ただの着任の挨拶ならわざわざ事前に文を出して念を押す必要は無い。取るに足らない用件なら、その手紙ひとつで事足りる。

 パスマと会うためにエカイユがわざわざこの場を設けたのは、なにもそれにかこつけて呑むためばかりでなく、その用件が確実に、しかも内密に取り扱わなければならないものだと知っていたからだ。
 ここは広々として壁もなく、そして床下は海という盗み聞きには適さない場所である。逆に言えばこれほど密談に相応しい場所も無いだろう。

 パスマは小さく息を飲むと、懐からもう一通の書状を取り出し差し出した。

「アルシェちゃんからの秘密の恋文、っと」

 エカイユは戯言を口にしながら書状に目を通し始める。しかしパスマはもはや警戒の色をその顔から落とさなかった。

 この男は間違いなく切れる。
 史上稀に見る優れた大神官としての名声はだてでも酔狂でもないようだ。今はまだ敵とも味方とも決まっていないが、万が一敵と定まった場合けして油断をしてはいけない、と。

「――なるほどねぇ」

 エカイユは視線を文面に落としたまま、くくっと笑った。

「お前さん、本来の名は――イルズィオーンのパスマと言うそうじゃねぇか」
「是」

 パスマはうなずく。ここ、神殿に来るまでの間は偽名を用いていた。だがその手紙には自分を示す名称が書かれていたのだろう。だとすれば頑迷に身元を隠しても意味は無い。しかし――、

「それは確か、北の大陸の暗殺一族の名前だ」

 ぎしっとパスマは身体の筋肉を緊張させた。そんな不穏な空気に気付いていただろう。しかしエカイユはまったく意に介さぬまま言葉を続ける。

「お前さんはこの手紙の内容を知っているのか」

 パスマはもう一度うなずく。中身を読むことはしていないが、どういう内容のことが書かれているかについてはアルシェから直接聞かされている。

「それじゃあ、一回読んでみな」

 そう言われ、パスマは素直に手渡された書簡に目を通した。

 その手紙はアルシェからエカイユに対して協力を要請する旨を綴ったものだった。
 この書簡の運び手に、自分は途方もなく世話になった。だからどうかこの者を自分と思い、できる限り手を貸してやって欲しい、とそう言ったことが書かれている。

「これが、いったいなんだと言うのだ」

 パスマは手紙から顔をあげ、ひとことそう言った。文面はアルシェから直接聞かされたものに相違ない。理解できないという顔つきのパスマに、エカイユはわずかに顔をしかめた。

「お前さんには、この書簡がどういった意味を持っているのか理解できていないようだなぁ」

 確かにこの書簡、それ自体はたいした内容ではない。
 単に旧知の大神官に、恩人に対する便宜を図ってくれと頼んだものに過ぎない。その上これ自身には何の強制力もない。

「だがその恩人がお前さんだと言うのは、ちと問題だなぁ」

 パスマは北の暗殺一族の人間で、その上八大王家の間諜だ。
 それに手を貸しているということは、明らかになれば売国の輩として大神官の職を罷免されてもまったくおかしくは無いということなのだ。

「まぁ、相手を俺だけに限ったってことは、それだけ用心深くはしているんだろうだけどな。こんな弱みを自分から作るのはけしてあいつらしくはねぇ。お嬢さんよ。あいつはどうやら、お前さんのためなら並々ならぬ苦労をする準備があるようだぜ」

 思いがけないその言葉に、パスマはたずねた。

「――なぜ?」
「おいおい、それは自分で考えな」

 エカイユはくつくつと笑う。だがパスマにはどうしても、アルシェが何故あれだけ苦労して手に入れた大神官の職をあっさりと捨ててしまえるのかが理解できなかった。

「正直、俺も売国奴になるのはごめんだがよ」

 エカイユはパスマを見てにやりと口端を吊り上げた。

「それでも今回ばかりは、アルシェの奴を信じてお前さんに手を貸してやるよ」
「アルシェを、信じて?」

 この場合信じるのは手を借りる自分ではないのだろか。首を傾げるパスマにエカイユは鼻を鳴らす。

「阿呆、初めてあった奴をそうあっさり信じちまえるほど俺は自分に課せられたものを軽々しく見ちゃいねぇよ。だが長い付き合いで、俺はアルシェのことは良く知っているからな」

 あいつが売国奴でなければ、単なる色ボケでもないと知っている。と、きししと笑う。

「俺の行為はアルシェへの信頼の元成り立っている。――お前さんがそれを分かっているならば、俺はお前さんに手を貸してやるよ」

 欠かれたばかりの黒曜石のように鋭い眼差しをエカイユは迷うことなくまっすぐと向ける。パスマはその強い眼差しにごくりと息を飲む。

「――是……」

 震えるように唇からこぼれ出た言葉に、エカイユはにやりとした。

「それじゃあ契約成立だ。俺はお前さんの手助けをする。その代わりお前さんは――俺の望みを適えるんだぜ」
「……はぁっ!!?」

 このときパスマはおよそ生まれて初めて、驚きの声を持って相手の言葉を聞き返したのだった。