≪黒薔薇狂詩曲≫
09 夜の帳がもたらすもの
――昔、いつになれば自分にも父親ができるのかと美登里さんに尋ねたことがあった。 たぶんそれはあたしがまだ幼稚園にでも通っていた頃のこと。
見かけはかなり幼い彼女だけれども、それでも美登里さんはまだ小さなあたしに口先だけの誤魔化しはしなかった。
だけれども、その説明ではあたしの疑問は解決しなかった。
あたしの記憶の中に父の姿はない。
どうしてこの家には父を偲ぶものが何一つ残っていないのかと。それから数年後、あたしはもう一度美登里さんに訊ねてみた。 みすずちゃんのお父さんは写真を撮られるのが苦手だったのよ。 母はあっさりと答えた。 しかしこの歳になればさすがに、それだけの理由でこうも見事に痕跡が失われてしまうとは信じられない。戸惑うあたしに美登里さんは困ったように、しかし優しい声で説明をした。 お父さんはね、死ぬ前に自分のいた跡を残しておかないで欲しい、ってお母さんに頼んでいたのよ。
だから、と彼女は微笑んだ。 目に見える形ではお父さんのいた証拠は残っていないけれど、お母さんの心の中にはお父さんの思い出がいっぱい詰まっているの。
ずっとずっと覚えていようね……、 ◇◇◇ 重い瞼を持ち上げると、そこは薄暗い部屋の中だった。
「ふん、ようやく目覚めたか」 びっくりするほど間近で声が聞こえて、あたしはぎょっと身を起こす。
「い、痛った〜……」 ぼろぼろと涙が溢れてくる。それくらい冗談じゃない痛みだ。 「愚か者め」 だけどそんなあたしにも容赦なく、ルードヴィッヒは冷たい声を投げつける。 「あの程度の攻撃ならば、余にはなんでも無い。まったく、余計な事をしおって」
別に感謝されたくてしたことではない。
「しかし下僕が主人の為に尽くすのは当然の行為だからな。その点においては褒めてやろう。きさまもようやくにして下僕としての自覚がでてきたか」 ――やっぱりこいつを助けてしまったことは、あたしの一生の不覚だ。 ふふん、と偉そうに笑う吸血鬼を前にしていると今頃になって、どうしてこんな奴を庇ってしまったのだろうかと、海よりも深い後悔がひしひしと湧き上がってくる。 「だから誰が下僕よっ。あたしは別に最初っから、そんな自覚持ちたいとも思ってないわよ。あんたこそ感謝のひとつやふたつ――って、あれ?」 とんでもない妄言を全力で否定していた時、あたしは自分の腕がやけに肌寒いことに気が付いた。
「これ……、」 唖然としながら訊ねると、ルードヴィッヒはこれ以上無いと断言できるぐらい尊大な態度で鼻を鳴らして言った。 「礼はきさまが述べるべきだな。まったく、主の手を煩わせおって、下僕は感激のあまりむせび泣くが良い」
正直なところ、まさか彼が手当てなんかをしてくれるような殊勝な人物だとはこれっぽっちも思っていなかったため、感謝よりもむしろ驚きが先に立つ。
「ならば、余の慈悲深さに改めて感服するが良い」
相変わらず傲慢な態度に呆れつつも、あたしは肩に負担がかからないようきょろきょろと周囲を見回した。 「ここ、まだ別荘の中よね?」 割れた鏡に蜘蛛の巣のカーテン。部屋の内装も薄汚れ加減も、先程まで居た別荘とまるで変わらない。窓から見える外の様子をうかがうに、たぶん二階にある部屋のうち一室だろう。 「どこぞの下僕が足手まといだったせいでな」
どこまでも嫌味ったらしいルードヴィッヒの言葉にむっとしながらも、あたしはそっと窓の外を確かめた。 たぶん淳哉と昭仁はまだ諦めていないだろう。
「……まったく。どうしてあたしが、こんな目に合わなくちゃいけないのかしらね」 何かの因果でこんな目に合わされているのだとしても、これではよっぽど酷いことをしでかしたとしか考えられない。
ならば果たして、自分のいったいどこが悪かったのだと――、 「……」 あたしはふいに押し黙って、おもむろに深くうなだれた。
「……ねぇ、もしかしたらあなたも気になるかしら?」 何の前振りもなく尋ねたあたしに、ルードヴィッヒは怪訝そうな顔を向けた。あたしは薄汚れた床に視線を落としてぽつりと呟く。 「あたしが、父の死の真相を知ってもショックを受けていない理由よ」 (――あんた、自分の親父さんが殺されたと分かったのに随分冷静だね) 淳哉の言葉が耳の奥でよみがえる。
あたしはルードヴィッヒに視線を向ける。人間離れした美貌の吸血鬼は陰鬱そうな冷たい瞳であたしを静かに見据えていた。 同属である彼らには言えなくても、
たぶんこの気持ちを告げられるとしたら、それは今この場をおいて他にないだろう。 あたしは決心を固めると、胸の内で重く凝る本当の気持ちを思い切って舌に乗せた。 「あたしね、父が殺されたと知っても――本当に何とも感じないの」 |
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