≪黒薔薇狂詩曲≫

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10 ひとでなしの娘

 


 声はかすかに震えていた。
 この告白をするには、かなりの勇気が必要だった。

 生みの親が殺されていたのだ。
 普通の人だったらやっぱり淳哉の言ったとおり、怒るなり悲しむなり何らかの感情を見せるものだろう。

 それを考えれば、確かにこの反応はまともではない。

 だけどそうと分かっていて尚、あたしの心は未だ冷たく冷えきったままだった。

「あたしは昔から、自分に父親がいるなんて思ったことはないの……」

 十六夜の月に照らされる野趣豊かな庭を見ながら、あたしはひっそりと息を吐く。
 未だに夫を愛していると言ってはばからない母は、頼まずともいくらだって父の話をしてくれた。その大半は他愛も無い、


   ――どんな食べ物が好きで、動物を飼うなら何がよくって、始めて見た映画は何で――

 
 だけど人柄を偲ばせるには充分な逸話。


   ――趣味は読書で、中でも海外ミステリーがお気に入り。季節の変わり目には風邪を引きやすくて、でも病院に行くのは嫌いで――

 
 だけどそれらはすべて自分にとっては他人事にすぎなかった。

 それだけではない。

 あたしは自分の拳を痛いぐらいに握りこんだ。

「今回の父の死の真相もね、まるで映画のあらすじを聞くような薄っぺらい感慨しかあたしは持てないの。あたしは父に、何の感情も抱いていない……」

 好きでなければ嫌いでもない。愛していなければ憎んでもいない。
 だけどそしてそれが決定的な感情となったのには、たぶん一つのきっかけから。

 あたしはちらりと視線を上げると、自嘲に近い眼差しでルードヴィッヒを見た。

「……あなたは、非嫡出子って言って分かるかしら。あたしね、自分の戸籍を見たことがあるの。そしたら、あたしの父親の欄は空白だったわ」

 いったいどういう理由があって、母たちが婚姻関係を結ばなかったのかは分からない。もしかするとそれは今回はじめて知った父の出自に原因があるのかも知れないが、問題なのはそんなことじゃない。

「戸籍上は、あたしには父親はいない事になっている」

 でもそれ以上に重要なのは、それを知った時にこう考える自分に気付いてしまったこと。

「――別にそんなのどうでもいいやって、あたしは思ったの……」

 顔も覚えておらず、戸籍の上でも他人でしかない父。
 自分にとって、父親はいなくて当たり前の存在だった。
 それは死の真相を知った今でも何も変わらない――、

「だけど今度ばかりは、自分と言う人間に本当に愛想が尽きたわ。だって父が殺されたのだと知っても、なんの感情も湧き上がって来なかったのよ。なんとも……思わなかった……っ」

 つんと目頭が熱くなるのはけして悲しいからではない。あまりにも自分が情けないからだ。

「もしかするとあたしは、人間としてはどうしようもなく欠陥品なのかもしれない」

 親が殺されていたと分かって涙も出ないとは、己の薄情さにさすがに呆れかえる。

 どんなに醜い性格でも、生きている人間を相手にするならば必死で外面を整えていればそれで済む。
 だけどそんな小細工も、死んだ人にはけして通用しない。死者には言い訳も嘘も通用しないからだ。

 残されるのはありのままの、情け知らずの冷たい娘。

 そう。
 これではあまりに――、

「あまりにも父が、可哀想よ……」

 命を賭けた守った娘がこんな風に育とうとは、たぶん思いもしなかっただろう。たぶん今頃天国かどこかで呆れ果てているに違いない。

(……あたし自身、こんなにも自分が情けなくって仕方がないのだから)

 ため息をついたあたしは、ふと窺うようにルードヴィッヒを仰ぎ見た。

 これで言いたいことは全部言い切った。
 だけど果たして人ではない彼は、あたしの告白をどう判じるのだろうか。

 寛大な心を持って許しを与えるか。
 それとも不快感も露わに蔑むか。
 あたしは叱られる前の子供ように彼を見つめていた。

 けれど、ルードヴィッヒの反応はあたしの予想していたそのどれとも違っていた。
 彼はなにやら酷くつまらなそうな顔をして、たった一言吐き捨てたのだ。

 くだらない、と。


 

   ◇◇◇


 

「くだらんな」
「ちょ、なによそれっ」
「まさか自分の下僕がこれほどまでに愚かしいとは思っても見なかった。まったく大馬鹿者だ。きさまは結局何も分かってはない」
「あたしが何を分かってないって言うのよ!」

 あたしはかっとなりながらルードヴィッヒに怒鳴りかかる。
 思わず踏みつけた鏡の破片がチャリッと音をたてた。

 確かにあたしは愚かかもしれない。情の薄い、酷い娘かもしれない。だけどそれでも、血も涙もない吸血鬼に馬鹿者呼ばわりはされたくはない。

 あたしは酷く腹が立ってルードヴィッヒをきつく睨みつけた。
 憤慨するあたしにルードヴィッヒはことさらに眉をひそめ、やれやれとため息をつく。

「ふん、愚かな小娘は説明されなければ理解もできんか。自分が何をほざき、真実何を望んでいるかも気付かんようでは仕方がないな」

 宝石と見紛うばかりの緑の瞳が、まるで冬の月のようにひどく冷ややかに冴え渡る。

「結局きさまは何がしたいのだ」
「えっ」
「このままここで己を責め、四ノ宮に利用されることを受け入れるのか」
「そ、そんな訳ないでしょうっ」

 あたしは慌てて言い返す。

 自分の性根がどうであっても、やっぱり人を殺して平然としているような連中の仲間にだけはなりたくない。
 ルードヴィッヒは馬鹿にするようにせせら笑い、あたしを半眼で見下ろした。

「愚かなる下僕よ、余はきさまが抱くつまらん感傷などに興味は湧かん。余はルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイト。そのような瑣末ごとに煩わされるような軟弱な神経はしてはおらん」
「あっそう。じゃあつまらない話にかかずらせちゃって申し訳なかったわね」

 反射的にそっぽを向こうとしたけれど、それよりも早くルードヴィッヒはあたしの顎をむんずと掴んだ。

「だから益体のある話をせよ、と言っておる。早く答えろ。きさまは何がしたいのだ?」

 ルードヴィッヒはあたしの咽喉をぐいっと九十度の角度にまで仰け反らせると、そのまま鼻先が触れ合わんばかりの距離で覗き込んできた。
 彼の漆黒の巻き毛が、まるでベールのようにあたしの肩や頬に落ち掛かる。

(く、首が折れる、――つうか顔が近いからっ!!)

 陶器のようなすべらかな肌に扇状の長い睫毛、そして形の良い真紅の唇が驚くほど近くに寄せられる。
 超度迫力の美貌に無造作に覆い被さられ、心の中であたしは悲鳴を上げた。

「きさまの望みはなんだ?」

 だけどそんなあたしの混乱すら飲み込んで、ルードヴィッヒは淡々とたずねる。
 その問い掛けはこんな状況にも拘らず、不思議とあたしの胸にすとんと落ちてきた。

 望み。希望。願い。

 不自然な体勢を強いられながら、あたしは自分の中から必死にその答えを探そうとする。
 答えは、意外なぐらいあっさりと見つかった。

「――平穏な、生活……」

 ぽつりとつぶやく。

 それが、それだけがあたしの求めるたったひとつの願いだった。

 あたしにはあたしの生活がある。
 無理やり跡継ぎにさせられるのも、逃げ回る羽目になるのも真っ平だ。自分の生活を彼らに干渉されたくはない。

 平凡なだけど、満ち足りた毎日。
 美登里さんがいて、学校があって、友達がいて。
 普段は意識することがなくても、そんな幸せな世界にあたしはいる。
 それはけして、手放してはいけないもの。

 自分勝手でも、我が儘だと罵られても構わない。
 あたしはそれを――、

「……守りたいわ」
「ならばそうすればいい」

 ルードヴィッヒはあたしの顎から手を離すと、なんてこともないかのようにあっさりとうなずいた。

「そんな簡単に言わないでよ」

 あたしはむっと眉をひそめルードヴィッヒを睨みつけた。

 そう簡単にいくようなら、もとからこんなに悩まない。
 確かにこの別荘から逃げ出すだけなら、何とかなるかも知れない。

 だけど問題はそのあとだ。

 淳哉と昭仁はあたしの名前を知っていた。
 たぶん遺産相続の話が来た時点で、あたしの身元は割れていると考えていいだろう。
 この場はしのげても、あとから家に押し掛けられたらまるで意味がない。いや、余計自体が悪化してしまう。

「だからきさまは愚かだと言っておる」

 けれどルードヴィッヒはふふんとほくそ笑み、いきなりその長く綺麗な指でおでこを弾いた。

「あ痛っ」

 あたしは額を押さえてうずくまる。ただでさえ長い彼の爪はこうなるともはや一種の凶器に程近い。

「なにすんのよっ」

 どこかデジャヴを感じながらも涙目で睨みつけると、彼はひどく愉快そうに笑いあたしに向かってこう言った。

「ならばどう足掻いてもきさまには手出しはできないのだと、この場であの者どもに分からせればいい」
「だからそんなの、あたし一人でどうやって――、」

 あたしははっとルードヴィッヒを見据えた。

「もしかして、助けてくれるの……?」

 信じられないという思いで彼を見上げると、ルードヴィッヒはくつくつと咽喉を震わせ悠然と自分の顎をさすった。

「相手の力量も測れぬ身の程知らずな小僧どもに、仕置きをくれてやるのもまた一興」

 そうして人差し指一本で再びあたしの顎をくいっと持ち上げた。

「それにきさまは余の下僕だからな。十全な雇用環境を整えてやるのもまた主の役目であろうよ」

 美貌の吸血鬼はそう言って不敵に微笑んで見せる。
 その笑みにつられたようにあたしはヒクリと口元を引き攣らせた。

 最後の一言だけは、とにかく余計だった。  

 

 

 

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