≪黒薔薇狂詩曲≫

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08 過ぎた好奇心

 

 あたしはあまりに唐突なことにすっかり固まって振り返ることもできなかったが、さすがは年の功と言うべきか。
 ランは微かに顔を引きつらせつつも、気さくな態度で目の前の友人に声をかけた。もっとも――、
「よ、よお、黒鬼。久しぶりだ。相変わらず別嬪だね。しかしようやく目を覚ましたなら、友人であるオレに一声掛けてくれてもいいんじゃねぇかい。水臭いなぁ」
 思いっきり声がうわずっていた。
 努力の程は認めるけれど、これならむしろ強がったりしないほうがよっぽどマシだったのではないだろうか。ランのあまりの小物っぷりにあたしは思わず気が抜けた。まぁ、その気持ちは正直分からなくも無いが。
 そんな中、ふいに魔性が呟く。
「さて」
 ぞくりと、ただひとことで背筋を凍らせる声。
 しばらく聞かないうちにすっかり耐性が失われてしまったようだ。あたしは途端に震えてしまいそうになる足を必死で踏ん張る。
「不思議なものだな。いったい余はいついかなる間に、この犬畜生と友になったのだろうか」
「い、犬畜生……!?」
 ガンッ、とショックを受けて撃沈するラン。それは確かに酷い。
「しかもこの犬は要らぬ口ばかりよく回るようだ」
 彼はどうやらかなり機嫌を損ねているようだった。明らかに周囲の温度が氷点下まで下がっている。
 ランはそんなこの場の空気を和ませようとしたのか、あえて軽く振舞いながら馴れ馴れしく話しかけた。
「な、なんだよ。もしかするとオレが昔の女のことを教えちゃったから怒ってるわけ? いいじゃん、もう百年がたってるんだぜ。時効だよ、時効。たしかにイオリちゃんのことは可哀相だと思うけどよ――、」
 ずんっ、とまるで空が落っこちてきたような腹に響く鈍い音がした。見上げたランの顔が、青ざめ凍りついたように固まっている。と言うか、その頬からは赤い鮮血がつつーっと流れていた。
「二度目は、無い」
 死刑宣告のような容赦のない冷たい声。
「消え失せろ」
「は、はいっ!」
 ランはそれこそ忠犬さながらな勢いでうなずき、身を翻す。もっとも途中で何か思い出したかのように戻ってきたかと思ったら、あたしの前で腰をかがめぽんぽんと頭を叩いた。
「それじゃあな、お姫さん。また今度な」
 あたしはむっとして文句を言おうとしたけれど、それよりも先に視線を上げたランがぎょっと顔を引きつらせる。
「じゃ、じゃあな。ルイルイ。お前もまたな」
 そして慌てたようにどこかに消えていった。
 ってか、――ルイルイ!?
 あたしは思わず目を見開く。たぶん笑ったら命に関わるに違いない。
 あたしは恐るおそる背後をうかがい、そしてひっと息を飲んで視線を戻した。それは彼の怒気に怖れをなしたからではない。いや、確かにないと言い切ることはできないだろう。
 だけどそれ以上に、あたしは久々に見る彼の美貌に言葉を失ったのだ。
 
 緩やかにウェーブを描く闇の巻き髪。
 生物というよりも鉱物や磁器を思わせるような滑らかな白い肌。
 血よりも鮮やかな真紅の唇。
 そして黄金率に沿って配置されたとしか思えない、奇跡の造作。
 
 彼――漆黒の魔性ルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイトは、あたしの記憶にあるよりもずっとずっと禍々しく、そして途方もなく美しかった。
 彼はあたしがいったい何に恐れおののいているのか気付いていたのだろう。彼はつまらなそうに鼻を鳴らすと、まるで水道の栓を捻るように無造作にあたしの頭を掴んでまわす。あたしは首の骨をねじ切られないために、自ら進んでルードヴィッヒの方を向かなければならなかった。
 ルードヴィッヒは小動物のようにびくびくと縮こまっているあたしの顔を覗き込んで、悩ましげにその柳眉をひそめる。
「なぜそんな顔を引きつらせる。不細工な顔がますます見るに耐えなくなるぞ」
「不細工で悪かったな――っ!!」
 あたしは怒鳴りがてら、いつまでも頭に乗せられていた手を叩き落した。
 そうだよ、すっかり忘れていたよ。どんなに綺麗な顔をしていたって、結局中身はこういう奴なんだよ。
「あんたこそどうして急に現れるのよっ。丸二ヶ月間も音信不通だったくせに」
 腹立ちまぎれにそう訴えると、奴は嘲笑うかのようにふんと鼻を鳴らす。
「呼ばれもしないうちからわざわざ下僕の前に顔を出してやるほど、余は暇でも酔狂でもないものでな」
「別にこっちには今だって呼んだつもりなんかさらさら無いわよ! 勝手に出てきたくせに偉そうなこと言わないで」
 そう。正直に言おう。
 あたしはこいつとは、これっぽっちも顔を合わせたくはなかった。 できることならば一生涯。
 何故ならこいつの顔を見た途端、あたしはよりいっそう落ち着かない気分になり、そして心臓をぎゅうっと握りつぶされるような不快感が起こる。
 この感覚はたぶん胸騒ぎ。
 不吉な予感を覚えて、自分の身体が危険信号を発しているのだ。
 だいたい名前を呼べばそれだけで、呼び出されたと感じるなんてはた迷惑極まりない。だとしたら今後はよりいっそう、名前を口に出さないよう気をつけるようにしなければ。
 ……あと、暇じゃなかったと言うこの二ヶ月間こいつが何をしていたのか――そこは追求しないでおこう。うん。なんか怖いから。
「それに有無を言わさずランを追い出すし……」
「なんだ、貴様。あの駄犬に何か用でもあったのか」
 あたしは思わずぎょっとした。 ルードヴィッヒはいきなり、なんだかものすごく不機嫌そうな表情を浮かべてこちらを睨みつけていたのだ。
「よもや使役でもするつもりだったのではあるまいな。止めておけ。奴はああ見えて気位が高く、人に使役される事を好まん。身の丈に合わない魔性を使役しても、命令には従わず最悪喰い殺されるのが落ちだぞ」
 へぇ、そうなんだ……。と、あたしは思わず感心しかけてぶんぶんと首を振る。
「べ、別に使役したいとか思ったわけじゃないわよ。ただ聞きたいことがあっただけで――、」
「聞きたいこと?」
「そうよ。ルードヴィッヒの前の主人のこととか……、」
 そこまで言ってあたしははたと我に返る。これって当の本人を前にして言うことじゃないよね。
「ほお――、」
 思ったとおり、ルードヴィッヒは蔑むような目であたしを睥睨する。そしてくっと冷たく笑った。
「くだらんな。そんなことを知って何になる」
「単に知りたいだけよっ」
 あたしはムキになって言い返す。こうなってしまったらむしろ直接本人に聞いたほうが手っ取り早いだろう。あたしは開き直ってルードヴィッヒに問い掛ける。
「ねぇ、あなたが前に使えていた人ってどんな女性だったの。さっきランが言っていたイオリって言うのが、その人の名前――、」
「知的好奇心は人間のもっとも手に負えぬ性癖のひとつだが、これはそこまで高尚ですらないな。――単なる俗悪な覗き趣味だ」
「な……っ!?」
 あたしは瞬間的に、目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚える。
 反射的にこの魔性に食って掛かろうとするが、それよりも前にいきなりあたしはルードヴィッヒに首を掴まれ、コンクリート塀に押し付けられた。圧迫感にひゅっと咽喉が鳴る。
「貴様には、関係のないことだ」
 一音一音言い聞かせるように、低く甘く囁かれるバリトン。しかしその声音からは威圧感を覚えこそすれ優しさは欠片も感じない。
 あたしは息苦しさにむせながらも、きっとルードヴィッヒを睨みつけた。
「関係なくなんかないっ! あたしはあんたの――、」
「余の、なんだ?」
 ふふっと、微かな笑みがこぼれる。それはまるで猫がネズミをいたぶるときのような、そんな愉しげな声。
 あたしは返す言葉を失って、ぐっと言葉に詰まってしまう。そう、あたしにとってこの魔性は果たしてどういう存在なのだろう。
 突然目の前に現れて人を下僕呼ばわりした、腹立たしい存在。
 それとも父親の一族に従い、今はあたしの僕である魔物。
 どれもこれも正しい答えでは無いように思え、あたしは黙っているしかなくなる。
 そして何よりも重要なのは、彼にとって――あたしはどういう意味を持っているのかということ。
 だけどルードヴィッヒは、あたしが口には出せなかった言葉をこれ見よがしに言って見せた。
「まさか余の主、とでも言うつもりか。それは思い上がりも甚だしい」
「じゃああたしはあんたの何なのよっ」
 ついつい食って掛かってしまったが、これは以前にも聞いたことのある問い掛けだ。かえってくる答えも予想がつく。
「下僕」
 ルードヴィッヒはあっさりと想像通りの答えを述べる。しかしふいに彼はその艶美な唇を歪めて嘲笑った。
「いや、もはや下僕と呼ぶもおこがましいな」
 彼はあたしの顎を掴み、ぐいっと力任せに咽喉をのけ反らせる。あらわになった首もとに顔を寄せ囁いた。
「貴様は、単なる餌に過ぎん」
 敏感な首回りの皮膚に冷たい吐息が吹きかかる。
(――喰われるっ)
 そう感じた瞬間、あたしは反射的に抵抗をしめした。
「いやっ、やめて! 離してよ!」
 がむしゃらに手を振り回したが、すぐに手首をひとまとめに掴まれ壁に押し付けられる。あたしに覆いかぶさるルードヴィッヒは苛立ちの混じった声で低く唸った。
「餌は餌らしく大人しくしておれ」
「絶対に嫌っ!」
 あたしはきっと顔をあげてルードヴィッヒを睨みつける。
 涙の滲んだ両眼。しかしこれはけして怖いからなんかじゃない。
 あたしはただただ自分が惨めで、情けなかった。
 前の主人は百年の眠りにつくほど大切にされて、あたしは餌だなんて言われてこんな嫌な思いをさせられている。
 滲んだ涙はぼろりと溢れて両頬を伝う。それでもあたしはルードヴィッヒから目をそらさなかった。
 わずかにルードヴィッヒの表情に躊躇うような色が混じったように見えたが、気のせいだろう。血も涙もない魔性はどこか険しい顔のまま夏に向け薄くなったブラウスの襟に手を掛ける。あたしははっとした。
「いやっ!!」
 びっと、ブラウスの釦が弾ける。中に着ていたキャミソールが覗くほど襟ぐりが大きく広げられた。
 釦が千切れるほど力任せに引っ張られた所為で、首もとが擦れて赤くなっている。ひりひりと痛むそこに狙いを定めたように、ルードヴィッヒはそっと舌を這わす。ぬるりとした感触が、まるで氷でも押し当てられたかのような冷たさと痛みを伴って皮膚を刺した。
 恐怖もある。口惜しさもある。しかしそれ以上にあたしは頭の中が真っ白になるような怒りと共に、この魔性を怒鳴りつけていた。
「やめなさいっ。ルードヴィッヒ・イデアール・ドゥンケルハイト! これ以上何かしたら、もう二度とあなたの名前は呼ばないわよっ!!」
 ぴたり、とルードヴィッヒの動きが止まった。
 あまりに唐突なことに何事かと思って彼を見ると、彼の無駄に高い鼻がまるでピエロのように丸くなっている。いや、あの色はむしろ――、
「スゥちゃんっ!?」
 あたしの声に反応したように、小さな愛らしい使い魔はぴょんとあたしの頭に飛び移ってきた。ルードヴィッヒの鼻には小さな噛み痕がちょこんと残っている。
 スゥちゃん、本日二度目のナイスファイト……。というか、あの意味もなく綺麗な顔に傷を付けられる時点であなたは勇者だわ。
 あまりのことに唖然としていると、ルードヴィッヒは赤くなったその噛みあとを憮然とした表情で擦り、あたしから手を離す。突然自由の身になったあたしは思わず腰が抜け、その場にずるずるとしゃがみこんだ。
 ルードヴィッヒはあたしから視線を外すとぼそりと言った。
「……気がそがれた」
「はぁ?」
 あたしは思いっきり眉をしかめてはた迷惑な魔性を睨みつける。
「喰う気が失せたという事だ」
「そんなの説明してもらわなくても分かるわよ!」
 あたしはひくりと顔を引きつらせた。まぁ何はともあれ危機は回避できたと言うことか。あたしはほっと息をつく。そしていつもとなんら変わりない周囲の住宅街を見回した。
「っていうか、あたしあんなにすごい勢いできゃあきゃあ騒いだのにどうして誰も出てきてくれないのよ」
 都会の人情の薄さにあたしが少なからぬショックを受けていると、ルードヴィッヒは呆れたように言った。
「誰も気付くはずがなかろうて。この一帯には結界が張られている」
「へ!?」
 あたしは思わず目を丸くする。
 どうやらこの付近に張られているめくらましの結界の所為でここには誰も通りかからず、そしてどんな物音も結界外の人間の耳には届かないらしい。
「大方あの駄犬が仕掛けていたのだろうよ。いまだ維持されていると言うことは、まだどこかで余の事を監視していると言うことか」
 ルードヴィッヒはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「あ、あたしそんなの全然気付かなかったわよっ」
「とうぜんだ。貴様は四ノ宮の『予見』の能力者。どんなめくらましも通用せんだろうよ。もっとも今回はそれを逆手に取られてうかうかとこんなところに誘い込まれたのだろうがな」
 我が僕ながら情けない、と呆れたようにルードヴィッヒはため息をつく。
「せいぜい気を付けることだな。貴様を欲しているのは、何も人間だけとは限らん」
 長くて綺麗な指先を伸ばすと、ぴんとおでこを弾いた。
「用がないのならこんな真昼間に気安く呼ぶな。――不愉快だ」
 そう言ってルードヴィッヒは陽炎が揺らめくようにその場から姿を消した。
「だ、だからあたしだって、あんたを呼んだつもりは一切ないんだからっ!!」
 あたしは声を大にして叫ぶ。
 だけどそんなあたしの主張に一片たりとも反応する物はなく、後には鳥の声すらしない静寂が、残っているだけだった。

 

 

 

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