≪五万ヒット御礼企画≫

これは長編『少年は世界を夢見る』のスピンオフ作品です。



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12 狩り (5)

 

 踵を返して走り出したおれの視界の端に、ベルヴァとカームの双方が衝突するのが見えた。だが、おれはもはや振り返ることなく、ただ足を動かすことに一心不乱になっていた。
 俺は怖かった。そして怯えていた。
 目の前に具体的な形で突きつけられた命の危険に、おれはようやく狂わんばかりの恐怖というものを味わっていた。
 怯え、逃げ惑うことしかできない自分を情けないと思う気持ちももはやない。おれはこの弱肉強食の世界において、単なる獲物でしかないのだから。
 緑の生い茂った山道の不自由な足元を、月明かりがわずかに差し込むだけの真っ暗な視界の中を苦労しながら走り抜ける。これまでずっと暗い洞の中にいたおかげで、それでもまったく視界が利かないというわけではない。もしかするとカームはこうした場合を見越して、明かりを一切持ち込まなかったのかも知れない。
 そして、おれは今まさに戦っているカームたちのことを思った。
 あのベルヴァの人形のような表情。任務を果たすことだけしか頭にない人間味のない虚ろな目。
 あれに比べれば、カームがいかに人間味に溢れていたかが良くわかる。
 カームはイルズィオーンから遣わされた護衛である。奴は自分を単なる道具だと頑なに言っていたが、それでもその身は人間以外の何ものでもない。
 今こうして命を狙われているだけでおれは、これほどまでの恐怖を味わっているのだ。護衛として主のために命を張ることを課せられたカームだって、それを生業としているとは言え、一切の恐怖を感じていないはずがない。
 しかしだからこそカームたちは、その恐怖心を持たないために感情のない道具であろうとしているのかも知れない。
 それを思えば、自分がカームに要求したことはかなり酷だったとも言えるだろう。
 だけどおれは同時に思う。
 おれはやはり、今の人間臭いカームのほうが好きだ。
 ベルヴァみたいな、あんな人形みたいな不気味な奴に守られたって、嬉しくもなんともないじゃないか。
「だから、頑張れよ、カーム。おれはお前以外の護衛なんて、もう考えられないんだからよ」
 おれは心の中でおれの護衛に声援を送った。


 何度も何度も、木の根や地面の高低差につまずき転びそうになる。それでもともかくがむしゃらに森の中を走っていたおれは、唐突に目の中に飛び込んできた光にぎくりとした。何者かが持った灯かりが、自分を照らしたかと思ったからだ。
 だが、それも一瞬のことで、すぐに自分が森を抜けたこと。丈の低い草ばかりが生い茂る、比較的なだらかなぽっかりと開けた空間に出たことに気がついた。自分を射た光は、山あいに落ちたなんてことない月の照射だ。
 空はまだ星の光がはっきりと見えるほどに暗いが、それでも月の位置からそろそろ明け方が近いことが知れた。
 たぶん、昔に起きた山火事か何かの爪痕だろう。山中に突如あらわれた遮るもののない広々とした丘陵は、月の光にくまなく照らし出され、追跡者の目におれの姿を浮き彫りにする。
 これはいけないと思って森の中に戻りかけるが、ふと考えておれは逆に草原のさらに中心に向かって駆け出していった。
 奴らの目はおれよりもずっと闇中を見通すことに長けている。気配を隠して忍び寄ることだってお手の物だろう。
 一方おれは暗殺の玄人でもなければ、熟練の護衛でもない。ただの一介の学生だ。
 それならば自分でも確実に相手の接近に気付くことができる、この開けた空間にいたほうが格段にマシだろう。なにしろ少なくとも心の準備をすることだけはできるのだから。
 そして、ここでなら空を樹木に覆われた森の中よりも早く、夜明けの到来に気付くこともできる。
 草原の中心まできて、おれは足を止める。そして空を見上げた。
 周囲は尾根に囲まれている。だが、太陽の昇る東の空はかろうじて稜線が低く、明け方に向けてわずかに色が変わっているのが分かった。
(間に合うか……?)
 おれは懐の中の手紙をぎゅっと握る。
 と、その時。けたたましい葉擦れの音に加え何かがぶつかるような重い音とともに、森の中から飛び出してくるものがあることが分かった。
 明け方の月の幽き。その姿は暁闇に滲んでいるが、それが見慣れたカームでないことだけはおれにもはっきり分かった。
 ベルヴァだ。
 だが今すぐ踵を返して走って逃げたとしても、追いつかれるのは時間の問題だろう。
 おれはせめて自分に向かって一直線に駆けてくる黒尽くめの姿からひたとも視線を逸らさず、真正面から睨みつける。
 草を踏み締め蹴りつける音が耳に届くかどうかのところで、おれは声を張り上げた。
「カーム、さっさと来いっ!」
 ――御意……。
 そう耳元に聞こえたように思えたのは幻聴か。
 だが、草原を走るベルヴァを追うように、黒い影が森から飛び出してきた。それは身を低くし、氷上を滑るように、あるいは鳥が滑空するようにぐんぐんとベルヴァに迫る。
 カームはベルヴァよりも速かった。ベルヴァはこのままでは先に追いつかれると察したのだろう。身を翻しカームに相対することを選んだ。
 短刀を手に待ち構えるベルヴァの足元にカームは牽制のように小刀を投げる。そして走る勢いそのままに転がるようにしてその脇をすり抜けた。身を起こし様、足の腱に狙いをつけて二つ目の小刀を振りぬく。ベルヴァはカームの刃を大きく飛びのくことで避けた。
 立ち上がったカームと着地したベルヴァは正面から相対する。だが、それもつかの間。カームはベルヴァの周囲を旋回するように身を低くして動きだした。おそらくそれは間合いを計っているのだろうが、獲物を狙おうとする獣の動きのようにも見える。
 ふいに、ベルヴァが動いた。それに合わせてカームもベルヴァに向かう。黒い装束の男二人は勢いよく激突した。
 力比べではベルヴァのほうが有利なのか。カームは弾かれたように後退する。
 再度向かってくるベルヴァに、身を低くしたカームは下段から刃を振り上げた。そこに、上段から振り下ろしたベルヴァの短刀が噛みあう。
 だが、それも一瞬で鍔競り合う前にカームはベルヴァの刃を横に流した。顔面に向かったカームの刃はベルヴァの面布を切り裂くが、一方でベルヴァの短刀もカームの肩を捉えていた。
 カームが漏らした苦痛の呻きが聞こえた気がした。だが、わずかに肩を庇うような動きをしつつもカームはベルヴァに相対することをやめない。
 その様子を傍から見ていたおれはぐっと唇を噛み締めていた。何もできない自分が歯がゆくて仕方がない。その一方で、おれはじりじりと後退をしていた。
 ここにいてはおれはカームの邪魔にしかならない。カームは俺の安否を常に気遣いながらにしか動けなくなる。それは、カームを縛る枷になるだろう。別の懸念がないわけではないが、おれはここはひとまず場を離れることに決めた。三六計逃げるにしかず。戦略的撤退も時には重要なのだ。
 だが、おれの動向に気を配っているのは、当然のことながらカームだけではなかった。
 おれの逃亡に気付いた途端、ベルヴァの動きが変わった。手負いのカームの存在を無視して俺に向かおうと身を翻したのだ。おれはぎくりと身を強張らせる。
 しかしその行動はベルヴァには隙を、そしておれたちには逆に好機を生み出したようだった。
 ベルヴァが身を翻そうと地面を蹴った瞬間、カームが大きく腕を振りぬいた。するとベルヴァが足を縺れさせる。
 何事かと目を見張るおれを尻目にカームは体勢を崩したベルヴァに素早く踊りかかった。ベルヴァの足には何かが絡まっているようで動きがぎこちない。
 そう。ベルヴァの動きを封じたそれは、ベルヴァの接近を察知するために鈴をつけて周囲に張り巡らせていた糸。それをカームは旋回すると同時に気付かれないようこっそりとベルヴァの周りに仕掛けていたのだ。
 そしてそれが勝敗を決した。しばらく二人は縺れあうようにしていたが、糸に絡め取られたベルヴァはやがて静かになった。
 気絶しているだけなのか死んでいるのかはわからないが、おれは思わず息をついた。
 気が付けば、周囲はだいぶ明るくなり日が昇るまであと少しというところだ。だが、おれのもう一つの懸念の方はまだ晴れていない。
「若様……」
 任務を成し遂げてどこかほっとしたような様子でカームはこちらにやってくる。俺は声を張り上げる。
「カーム、油断するなっ!」
 そして、それはやはり現実のものとしておれの前に姿を見せた。





 

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12、「狩り」……『少年は世界を夢見る』スピンオフ作品

 

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