第二章 1、「森の中の小さな街道」(2)

 

 数週間前、『始まりの神殿』を出発しようとする時、彼らはあるひとつの選択を迫られていた。それは最初の目的地である東の(アウストリ)大陸の大神殿までいったいどのようなルートで行くのかという、なんとも単純かつ重要な問題である。

 最もスタンダートなのがここから船に乗って直接近くの港まで行くという手だったが、それに激しく否を唱えたのがバッツだった。

「―――おれは絶対に反対だぞ」

 海路を使ってアウストリ大陸まで行くという案が出た時、バッツが真っ向から反対した。

「でも一番楽な方法はここから船を使うことなんです。もちろんそれも後からしばらく歩く必要がありますけど…。でもあの、どうしてそんなに船がいやなんでしょうか?」

 海路で行くことを提案したジェムが不思議そうに首をかしげた。どう考えても陸路より海路の方が便利だ。バッツはむっと一瞬押し黙るが、視線をわずかに逸らしぼそりと小さな声で白状した。

「…おれは、船が大っ嫌いなんだ!」

 顔を真っ赤にして、握った拳は振るふるふると細かく震えている。どうやらこの告白にかなりの気力を要したようだ。

「そのような私情な要求は受け入れられんな」

 ゼーヴルムが無常にもその意見を切り捨てようとするが、バッツも負けじと眉を吊り上げて反論する。

「それなら楽したいから船を使うという提案も私情なものだろうが!
 大体おれはな、あんなでかくて重い物が水に浮いてるということ自体受け入れがたいんだ。もし沈んだらどう責任を取ってくれる!!」

「滅多な事では船は沈まん」

「つまり滅多な事が起きれば沈んじまうんだろっ」

 そんな危なっかしい物に乗ってられるかと、声を大にして叫ぶ。

 そーいやバッツは砂漠出身だったけ?

 シエロがなるほどとうなずいた。海と最も縁の遠い地で暮らしていた彼は、どうやら大量の水に恐怖心を覚えているようだ。まあ、ありえないことではないだろう。

「でも、それならバッツさんはどうやってこの北の大陸まで来たんですか? 船で来たんじゃないんですか?」

 彼の住むスズリ(南の)大陸は、集合場所のあったノルズリ(北の)大陸から最も離れた所にある。どう考えても船以外の方法ではやって来ようがない。

 ある意味最もなその問いにバッツはにやりと口許を引きつらせると、自慢するかのように胸を張り鼻を鳴らした。

「そりゃあ、船を使わなきゃどうしようもないところは船を使ったがな、それ以外は全部陸路だ。東の大陸の南端から北の大陸までずっと歩いてきた」

「ええ〜っ! じ、じゃあひと大陸丸々縦断しちゃったたんですかっ!!」

 ジェムはごくんと息を飲む。

 他の大陸とは違って、東の大陸と北の大陸ではわずかに繋がっている地峡部分がある。確かに歩いて移動できないこともない訳ではないのだが…。

 かなりぶっ飛んだ話だ。

「ぶわはっ!」

 呆れとも驚愕ともつかない気持ちでバッツを凝視していると、突然の妙な音が背後から聞こえ、ジェムはびっくりして振り返った。

 見ると、その発生源は肩を震わせその場にうずくまっているシエロで、彼は苦しそうに腹を抱え地面をバンバンと叩いている。

「くはははははっっ! 素晴らしい。無茶苦茶だね、いや、最高だよ。うん。こんなに笑わせてもらったのは実に久しぶりだ。本当に豪快だ。痛快だ。大冒険だ。でも駄目だよ、ひとりで先に世界半周を果たしちゃったら」

 ひーひーと苦しそうに呼吸しながら、シエロは本当に腹が捩れるのではないだろうかと思うほどに大爆笑して、それがひとまず落ち着くと今度はバッツの肩に馴れ馴れしく腕を回した。バッツは薄気味悪そうにその腕を振り解く。

「あははは。げほっ、まずい、笑いすぎてむせてきた。バッツくん。そんな君に敬意を称して、陸路で行く方に一票だ」

「なんだと!?」

 ゼーヴルムが目を見開く。驚愕のあまり、珍しく彼の眉間からは皺が消えたが、すかさず今度はより深くくっきりと皺が刻まれる。

「シエロ・ヴァガンス! 貴様何をふざけたことを言っているっ」

「別にふざけてなんかいないさ。どうせさ、いつかは船には乗らなきゃいけない訳だし。それほど急ぐ旅でもない訳だからさ、最初ぐらい自由にやっていこうよ。それで誰かが死ぬ訳でもなし」

「だからと言って―――、」

「あの、」

 ぎろり、と冷たい灰色の瞳が普段より厳しい光をまとってジェムに向けられる。ジェムは思わずびくりと身を硬くするが、おずおずと切り出した。

「えと、その…。やっぱりぼくも陸路の方がいいな、なんて思ったんですけど―――、駄目、ですか?」

 ゼーヴルムは苦虫を口いっぱい頬張ってそれを一気に噛み潰したような、もはや凶相と言っても差し支えないぐらいに顔をしかめると、くるりと彼らに背を向け吐き捨てた。

いわく、 「勝手にしろ」、と。





 そんなわけで彼らは陸路を使って東の大陸に向かっていた。彼らが用いたのは、大陸間の流通を支える主要街道のひとつで、周りには宿場町も多い。彼らは乗合馬車などを使って目的地である大神殿を目指していた。

 ちなみに一般の巡礼者とは違って、神殿に選ばれた彼ら巡礼使節団は、神殿の金で様々な施設や交通機関を自由に利用することができる。その手形となるのが『始まりの神殿』で貰い受けた巡礼の証『デヴァイン・ブレス』であった。
 また、これさえあればいざという時に各地に点在する各宗派の神殿から援助を受けることもできる。

 北の大陸と東の大陸を結ぶ地峡部分は何ごともなく無事通過した彼らであったが、東の大陸に入ってからはそうはいかなかった。そこから先はまさに一難去ってまた一難。様々な災難が次から次へと手ぐすねを引いて、彼らを待ち受けていたのだった。



「ったく、巡礼がこれほど面倒なものだとは思わなんだ…」

 目と目の間を指でもみほぐしながら、ゼーヴルムが心底疲れたようにため息をつく。

 しかしそれも仕方あるまい。

 このような魔物の襲撃は彼らにとってけして初めてのことではなかった。さらに彼らの首からは今までずっと誇らしげに掛けられていた『デヴァイン・ブレス』が消えている。これはせめて少しでも面倒事を減らそうと、野盗などに目を付けられやすいこの高価な装飾品を外から見えないところにつけるようにしたからだ。

 何より名誉を重んじるシェシュバツァルなどはこのことに最後まで反対していたが、結局背に腹は変えられない。この名案によって野盗に襲われることはだいぶ少なくなったが、それでもまだ魔物などの襲撃はたびたび起こる。

 ジェム以外の三人は『始まりの神殿』まで己が歩いてきた長い道のりを思い返し、この巡礼の異常さを痛感していたが何故このようなことが起こるのかは誰も想像がつかなかった。

 ゼーヴルムが周囲を見回し、やれやれとため息をつく。

「せっかく買い付けた馬も今の騒ぎで逃げ出した。これから先は歩きになるぞ」

 しかもこのままでは今夜は野宿をする羽目になるかもしれない。春めいてきたとは言え、まだまだ夜は冷える。最低限の野宿は仕方ないにしても、予定していた宿泊地にすらまともにたどり着けないのではゼーヴルムでなくともついつい頭を抱えたくなる問題であった。

「ははは。そうぐちらない、ぐちらない。前回も前々回も失敗してるような巡礼だぜ? 大変に決まってるって」

 いつもの調子で気楽に笑うシエロを、しかし今回ばかりはゼーヴルムは鋭く睨み付けた。

「貴様も貴様だ。聞かせてもらうが、何故貴様は戦闘に参加しない」

「ふえ?」

 シエロは目を見開くと前後左右を見回して、おもむろに自らを指差した。

「俺?」

「お前以外の誰がいる」

 嫌悪感を剥き出しにて彼は顔をしかめた。

 確かに思い起こしてみれば、シエロは今まで幾度もあった魔物の襲撃も野盗の来訪も、すべてその相手をバッツとゼーヴルムに任せ自分は高みの見物を決め込んでいた。しかしそれは別にシエロに限ったことではない。

「そ、それはぼくも同じですよ。ぼくも戦いはゼーヴルムさんたちにまかせっきりでしたっ」

 ジェムは慌てて庇うがゼーヴルムは首を振った。

「ジェム・リヴィングストーン。お前とこやつとでは話が異なる。お前はもともと戦う力がない」

「それは俺も一緒だってば」

 シエロはへらへらと笑って肩をすくめたが、ゼーヴルムはそれを一喝する。

「黙れ、虚言癖。私が気付かないとでも思ったか」

 そして電光のような速さで剣を抜くや否や、シエロに向かって切りかかったのだ。