第二章 1、「森の中の小さな街道」(4)

 

 森の中の一本道。それぞれの得物を手に持ち向かい合う二人に遠慮するかのように、その周囲では鳥の声も葉の草ずれる音もどこか遠い。

 だがぴりぴりとした雰囲気のゼーヴルムとは対照的に、顔は真面目でも構えた枝の先をプラプラと揺らしているシエロの様子はどうにも緊張感が欠けている。それに元より鋭い光を弾くゼーヴルムの長剣と、そこらに落ちていたシエロの枝ではどう考えてもシエロの方に部が悪い。その圧倒的な戦力の差は、端から見ているとまるで何かの悪い冗談のようだ。

「…どうした。掛かって来ないのか?」

「そちらからよろしく。俺は先制攻撃の仕方なんて知らないからね。お先にどうぞ」

 シエロはおどけて片目を瞑る。
 ゼーヴルムはぎりぎりと歯軋りをした。

 何ともやりにくいと言ったらありはしない。
 少しでも殺気を匂わせてくれれば遠慮なく切りかかれるのに、シエロはあまりにも無防備だ。あまりに無防備すぎて加減が効かずばっさりと切り殺してしまうかもしれない。それはさすがにまずかった。

 戸惑うゼーヴルムに、シエロはさらに余裕綽々と言った顔でにやりと笑いかける。

「遠慮してるならその必要はないよ。君の剣では俺に掠めることもできないだろうからね」

 その言葉がきっかけという訳ではないだろうが、ゼーヴルムはすっと目を細め、剣を握り直した。挑発だとは分かりきっていたが、もはや覚悟は決まった。

 そこまで言うのなら、望み通りやってやろうではないか、と半ば自棄のような気持ちで正眼に剣を構える。      

 そして迷いも何も心から捨て去ると、ゼーヴルムはシエロに向かって駆け出そうと足を踏み出した。
 だが―――、
 
      
 
 

「うっ、うわあああぁっ」

 
 

 尋常ではない悲鳴にゼーヴルムとシエロははっとして振り返った。同様に驚いているバッツのはるか後方では、目を硬くつぶり身を庇うジェムに向かって一匹の野犬が襲い掛かっている。

「なっ…、まだ残っていたのかっ!?」
「ジェムっ!!」

 二人はほぼ同時に駆け出した。バッツも炎を召喚するが、ジェムと野犬はまるで絡まるようにしてごろごろと転がり、一方のみを狙うことはまず不可能だった。

 気配を察知できず野犬をここまで近づけてしまったこと。そして、一番弱いジェムを無防備にしてしまったこと。

 反省すべき点はいくらでもあるが、それらは全て今さらだ。
 ほんの数歩の距離が今はあまりにも遠い。

「間に合うかっ」

 ゼーヴルムはぎりりと歯を食いしばる。 ―――その時、

 ひゅっと風を切る音がして彼らの目の前を何かがかすめていった。

  スタッ、スタンッ

 立て続けに二本の矢が野犬の灰色の毛皮に突き立った。犬は短い鳴き声をあげてくたりと倒れる。その矢は小指ほどの太さもない華奢なものだったが、的確に獣の急所を捉えていた。

 突然のことに驚きながらも彼らは慌てて駆け寄って行き、力を失った野犬の下からジェムの身体を引きずり出した。野犬の鋭い牙はジェムの細い首にかかっており、まさに食い千切られる寸前だった。

 助けられたジェムはがくがくと震えながらすぐそばにいたシエロの身体にぎゅっとしがみ付く。シエロはジェムの無事なその姿を見て、ひとまずほっと息をついた。

「よかった…。大丈夫みたいだ」

 バッツも駆け寄り安堵の息を吐く。そして獣の身体から矢を引き抜き声を張り上げた。

「おい、この矢を射たのはどこのどいつだ!?」

「まあ、恩人に向かって酷い言い草ね」

 堅いバッツの声に間髪もいれずに返って来たのは、思いがけぬことになんとも可愛らしい声だった。三人ははっとして声の方に目をやる。何とか気持ちの落ち着いてきたジェムも薄目を開け森の奥をうかがった。

「大変そうだと思ったから手を貸してあげたって言うのに。こういう場合は何よりも先に感謝の言葉を述べるべきではないかしら?」

 ゆったりとした足取りで現れたのは、この近辺の狩人の服に身を包む少女だった。長い亜麻色の髪が艶やかに輝いており、帽子の下にうかがえる耳はつんと尖っていて、かなり典型的なシルヴェストル(森の民)の容姿だ。ジェムと同年代か少し下くらいの、まだ幼さを残す小柄な少女だが、その背に負った矢筒からは確かに野犬の背に刺さっているのと同じ矢羽が見て取れた。

「だいたい立派な殿方がそろいも揃ってこのざまは何? 仲間一人守ることができないの?」

 パッチリとした瞳のまなじりを吊り上げて、はっきりと非難の言葉を浴びせ掛ける。可愛らしい少女だが、言っていることはかなり辛辣…と言うよりかは正論過ぎて胸に痛い。
 胸を押さえシエロが「アイタタタ」とつぶやいた。

 少女はどういう訳かかなりご立腹のようで、さらにずばずばと彼ら三人に非難の言葉を捲くし立てる。それは息つく暇もないほどだ。そしてその一番の標的になっていたのは、なぜかゼーヴルムだった。

「特にあなた、その手に持っているご大層な剣は何なの? 大切な人を守るためのものじゃないの? それもできないのならそんなものさっさと捨てちゃえばいいのよ。それとも何? これは自分の誇りだとでも言うの? それはそれは立派な人切り包丁ですことっ」

「め、面目ない…」

 いわれのない文句もだいぶ混じってはいたのだが、ゼーヴルムは呆然として呟くしかなかった。

 少女の言うことの大半はまさにそのとおりだったし、それにいくら腹が立ってもこんな小さな子ども相手に怒り出すのも大人気ない。何より突然のことに圧倒され、どう反応すればいいのかまったく分からなかったのだ。

 あっけに取られる彼らの中で一番最初にキレたのは、まあ当然の事ながら気の短いシェシュバツァルだった。

「おいおいっ。黙って聞いてりゃ、いくらなんでも言いすぎだろうが! おれたちは初対面の相手にそこまで説教される筋合いはないぞっ」

「あら、よく知った相手の忠告でなきゃ聞けないの? それは何とも狭量な話じゃないこと? だいたいその声。あなたでしょ、どこのどいつだって下品な声を張り上げたのは」

「単に誰だか聞いただけだろうが。いったい何が悪いって言うんだよ」

「すくなくとも口が悪いわね」

「それはお互い様だろうがっっ!」

 バッツが声を張り上げて怒鳴った。

「あはは。なるほど、確かに正論だ」

 いつのまにやら掛け合い漫才のようになってゆく二人のやり取りを、シエロが笑いながら見物している。漏れ出る声は心底楽しげだ。

 バッツは鼻面を寄せると、

「大体ろくに事情も知らないくせに偉そうな口を利くんじゃねえよっ」

 と、感情のままに怒鳴るのだが、いっぽうの少女は

「事情なんて対して重要なものじゃないわよ。そんなもの知らなくたって、あなた方が仲間を危険にさらしたって事実は変わらないもの」

 と言い返す。しかも理路整然と付け加えた。

「第一事情なんて要するに言い訳ってことでしょ。大切なのは経過じゃなくて結果よ。そんな女々しいことを言うぐらいならもっとマシな反論しなさいよ」

「はは、うまいこと言うねぇ」

 つんと顔をそむける少女をシエロが賞賛した。
 それに煽られたかのように二人の言い争いはますます白熱していく。

「結果だけが大事だって? はんっ、それこそ自分の意見をごり押しするための言い訳だろ。おれたちが何をしていたかも知らないなら、何を言っても的外れな意見にしかならないことを自覚しろよな」

「失礼ね。ちゃんと知っているわよ! あのおっきい人たちが仲違いしていて、あなたがそれを悠長に見物している間にあの人が野犬に襲われそうになったんでしょ。あたしだってちゃんと見ていたんだから分かってるわよ」

「それはつまりあんたも悠長に見物していたってことだろ。もしもおれたちとは違ってしっかり周囲にも気を配っていたんなら、ジェムが襲われるよりも前にあの野犬をそのご大層な矢で射殺すこともできたはずだもんな」

 手痛い指摘に少女がぐっと言葉を飲んだ。

「おやおや、これは一本取られたかな」

 観客のシエロが肩をすくませる。

「し、しょうがないでしょっ。あんなものがいきなり飛び出してくるなんて、予想もしていなかったんだから」

「それはおれらだって一緒だっつーのっ。ボス犬倒したあとまで襲ってくるような、根性ある野犬がいるとは思ってなかったんだよ」

「それでもあなた達が本当に仲間を大切に思ってるんだったら、完全に意識を逸らするべきではなかったはずよ!」

「おっと、痛いところをついてくるなぁ」

 ぽんと膝を打った時、少女とバッツは同時にシエロのほうを振り返った。

「お前はどっちの味方なんだよっ」

「余計な口を挟んで来ないでくれますか!!」

 二人の子どもから同時に非難され、シエロはその勢いに押されたかのように身をのけぞらせる。

「それは失敬」

 と、その時。誰かが少女とバッツの間に割り込んだ。

「…お願いです。もう、止めて下さい」

 蚊の鳴くようなか細い声。
 少女とバッツの両方に訴えかけるその姿はまさに鬼気迫るもので、同時に熱に浮かされているかのごとくその足取りは頼りなく、おぼつかない。

「ぼくなんかのために、争うなんて駄目なんです。そんなの、いけないんです。全部全部、ぼくが悪いんですから…。だから、もう―――、」

 ジェムの口からうわ言のように言葉が漏れた。
 彼の顔色は、襲われた直後よりもずっと青くなっている。そして呆然とするバッツたちの目の前で、彼はそのまま、地面に倒れこんだ。

「えっ、ちょっと。どうしちゃったのよ」
「おいっ!? ジェム、大丈夫かっ」

 少女は慌ててジェムの側に膝をついた。バッツたちも慌てて声をかけるが、どんなに呼んでも返事はない。しかも顔面は蒼白で指先が細かく震え、息をするのも苦しそうだ。

「待ってよ、何これ。まさかどっか怪我してたのっ。 ――ねぇっ、スティグマ。スティグマ! ちょっとこっち来て、早くっ」

 色を失った少女が慌てて顔を上げ、大声でどこかへと呼びかける。

 その声に答えるように、ひとつの足音が森の奥から聞こえた。