第二章 2、「デッド・ムーン」(1)

 

   嘆きはどこにも届かない
   あたりは暗く、まわりには誰もいない
   いや、いっそ誰もいない方がいいのかもしれない
   誰かを巻き込んでしまう、それぐらいなら…
   胸の痛みで意識が真っ白になる
   嫌だよ、怖いよ、苦しいよ
   涙がぼろぼろと溢れた
   何故こんなことになってしまったのだろう
   誰も答えてはくれない
   ただ、罪の意識だけが心を苛む
   感情が疲労し、魂が摩滅していく

 ああ、もういっそ

   ―――こんな苦痛ばかりの大地など消えてしまえばいいのに…





(―――いやだっ、もうやめて! 痛いよ、誰か助けて…っ)

 現実には聞こえない悲鳴が耳をつんざいた。
 はっと目を開け慌てて身を起こしたジェムはそのとたん強烈な目眩に襲われて、頭を抱えて深くうつむく。
 頭痛と悪寒、そして酷い吐き気がジェムを襲う。
 夢見が悪かったせいもあるだろう。心臓もばくばくと鳴り打ってうるさいほどだ。
 だがそんなことは気にしていられない。早く、早く行かなければ…。彼らに―――、

(彼らに早く謝らなくては―――、)

 

「まだ無理はしないほうがいい。君は倒れたのだからね」

 ジェムはぎくりとして顔を上げた。くらりと揺らぐ視線の中に見覚えのない男性が立っている。彼はジェムの肩をそっとつかむと、再びベットの上へ寝かしつけた。

 よくよく辺りを見回すと、ジェムは見知らぬベットの上にいた。サイドテーブルに置かれたランプが、天井にぼんやりとした影を作っている。窓から見える外の景色はすでに夜だ。今日は新月のなのだろうか、星がよく見える。

 怯えるような目をするジェムに男性はふっと苦笑した。

「心配は要らない。わたしは医者だ。君の症状はストレスと疲労。ようは過労だな。だいぶ無茶をしていたんじゃないかい」

 労わるような穏やかな声。
 そこで初めてジェムは、自分がもはや北の学院にいるのではなく、巡礼使節の一員として旅をしていたことを思い出した。

「あっ、あの、みんなはどこですか!」

 自分が寝込んでいる間にみんなは先に行ってしまったのではないか。見知らぬ部屋の景色から、そんな思いにかられジェムは焦るが、そんな彼の気持ちにに答えるかの如く乱暴に扉が蹴り破られた。

「お待ちどうさん。シエロ特製のスペシャルティーのご到着! ミルクと蜂蜜とハーブの素敵なハーモニーがあなたを夢の世界へと誘いますっと。ってジェム、目を覚ましたんだね」

「シエロさんっ」

 両手にお盆を抱えたシエロが、ジェムに明るく笑いかける。

「シエロ・ヴァガンス。貴様、寝ているかもしれない病人のいる部屋のドアを蹴り開けるんじゃない。非常識極まりないぞ」

「大体お前のスペシャルティーとやらはまともなもんが入ってたためしがないじゃねぇか」

 続けて大小二人の人物が部屋に入ってくる。

「ゼーヴルムさんっ、それにバッツさんも」

 ジェムは心からほっとして笑みをつくる。同様に仲間たちも安堵するように息をついたので、ジェムは慌てて深々と頭を下げた。

「あの、本当にご迷惑を掛けてしまったみたいで…、ごめんなさい」

「まったくだっ!」

 突然怒鳴りつけるように、険しい顔のバッツが強い口調でジェムに指を突きつける。

「お前なぁ、いきなり倒れたりすんじゃねえよ! びっくりしただろうがっ。きついならきついって、最初に言っとけよ。お前、三日も寝込んでたんだぞっ。無茶すんな、阿呆っ」

「ご、ごめんなさいっ」

 びくりと身をすくませ泣きそうな顔になるジェムに、シエロがかんらかんらと笑いかけた。

「はは、別にバッツも本気で怒ってる訳じゃないから。バッツはね、人一倍ジェムのことを心配していたんだぜ」

「それこそ初産を待つ夫のように、部屋の前をうろうろ、うろうろとな…」

「うるせえ! てめえら余計なことを言うんじゃないっ。特にそこの兵隊は黙ってろ!」

 バッツが顔を真っ赤にして年長者二人に食って掛かった。
 ジェムもくすくすと笑っていたのだが、ふと医者と名乗った男性の姿が目に止まり慌てて彼にも頭を下げる。

「えっと、その、お手数おかけしてしまったみたいですみません」

「おやおや。ようやく存在を思い出していただけたようだ」

 皮肉に言い放つが、別に気分を損ねたわけではないようで男性はすぐに苦笑しながら首を振った。

「謝る必要はない。医者は患者を診るのが仕事だからな」
「あ、居たんだ。気づかなかったよ」

 シエロが片手を上げてあっさりと非礼を自己申告する。医者はちょうど口に含んだばかりのお茶を吹き出したのだが、それはシエロのセリフの所為か、はたまたシエロのお茶の所為かは判断に迷うところだ。
 しかしどちらにしてもシエロが原因であることに変わりはないだろう。     

 猫背がちな背をさらに丸めて咳き込む医者の姿を見ながら、念のためこのシエロ特製スペシャルティーとやらは飲まないようにしようとジェムは決めた。     

 苦しそうな医者の隣で、何事もなかったかのようにシエロが彼を紹介する。

「この人はドクター・ベルクライエン。この村のお医者さんで、ジェムのことを診てくれた人」

 失礼、と呟き、彼は口を拭って身なりを整えた。まあ、整えると言ってもせいぜい襟元をただすぐらいで、服はよれよれ頭はぼさぼさで威厳も何もあったものではない。顔には無精ひげが伸び、肩まである髪は無造作に結わかれている。しかも伸ばしていると言うよりかは放っていたら伸びてしまったという風体だ。

 だいたい三十代から四十代くらいのまさに働き盛りの男性だが、小柄なうえ痩せているので医者にしてはなんとも貧相である。所帯疲れた雰囲気さえ見える。これでは患者の方も安心して診察を受けられないのではと勘ぐってしまいたくなるものだが、少なくとも医者と言うだけあって身なりの割にはこ汚い感じがしないのが救いであった。

「ご紹介に預かった、スティグマ・ベルクライエンだ。ただしこの村では客分という身分であって専属医ではないな。それとわたしは神殿の免状を貰っていないので正確に言えば医者じゃない。医者もどき、という奴だ。だから『ドクター』と言う敬称は要らないよ」

「げっ、闇医者だったのかよ!?」

 シエロのスペシャルティーの匂いを恐る恐る嗅いでいたバッツがはじけたように顔を上げる。

 医者と言う職業は、神殿の難解な試験に合格し免状を受け取ってはじめてなれるものである。無事免状を得た人間は神殿の委任状に従って各地に配属される。つまりそれ以外の人間はいくらそうだと名乗ろうと正式には医者として認められないのだ。

 だが現実には資格も何も持たないままあやふやな知識と中途半端な腕で患者を診察する『闇医者』も少なくない。
 神殿や行政側としてはそのような存在はぜひとも駆逐したいところなのだが、正直な話、地方では医者の数がまったくもって足りておらず、まっとうな医者にかかる金を持たない民衆はすべて彼らが請け負っているという実情があるためそう安易に規制できない。

 けれどもまた一方では、患者を生かすよりも殺すことの方が多いと言うとんでもない『やぶ医者』もかなりの割合で存在しており、そこらへんがどうにも悩みどころなのであった。

 バッツ同様に驚いた様子を見せているシエロやゼーヴルムにジェムは心なしか引きつった笑みで問い掛けた。

「あの、もしかすると皆さんはスティグマさんが免状をお持ちでないことを、ご存知でなかったんですか?」

 以上のような理由から、特に地方では闇医者に掛かるのは文字通り命懸けの大博打だったりもする。こんなこと本人の前では言える訳ないが、バッツもしどろもどろになって答えた。

「いや、だってさ、お前の脈をとったりして診察する様子もなんとなく様になってたし、何よりこいつにみせるなら絶対間違いないって言い張る野郎がいたからよ…」

「言い張る野郎…?」

首をかしげるジェムに、スティグマはごほんと咳をして自らの鳶色の髪を撫で付けた。

「うん、そこら辺のことに関しては私も君に謝らなければいけないな…。どうやら、うちのはねっ返り娘がとんだ迷惑をかけたようで―――、」

「はねっ返りとか言わないでよ、もうっ」

 バン、と扉を蹴り開けてひとりの少女が怒鳴り込んで来た。