顔を真っ赤にして怒鳴り込んできたのは、森でジェムを助け、バッツと激しく口論をやらかしたあの少女だった。手にはたらいと布を抱えており、タイミングよく入ってきたもののどうやら彼の言葉に反論するためにではなく、額を冷やすための布を取り替えるためにやって来たようである。 ジェムは枕の側にぬれた布が落ちているのに今更になって気付いた。どうやら始め飛び起きたときに落としてしまったらしい。 「スティグマ、あんまり人聞きの悪いことを言わないで欲しいわ。あれにはちょっとした事情が…」 「フィオリ、彼が目を覚ましたよ。わたしよりも先に彼に言うことがあったんじゃなかったかい」 頬を赤く染め、口早に反論を捲くし立てていた少女はその言葉にぷっつりと押し黙り、おもむろにジェムの方へと向き直った。思いつめたようなその顔に何が起こるのかと心なしか緊張するジェムだったが、彼女はニ三歩近寄ると唐突にがばっと頭を下げた。 「ごめんなさい! あなたが倒れたのはあたしにも原因があるって聞いたわ。本当に反省してるの、ごめんなさいね。あたし、勢いづいちゃうと後先考えずに物を言っちゃう癖があって…。でもね、悪気はなかったの。だから許してちょうだいっ」 そして少女は頭を下げたまま、ちらりとスティグマの方を見る。彼はやれやれと息をついて少女の頭にぽんと手を置いた。 「と、まあ本人も反省しているようだから、どうか勘弁してやって欲しい。気が強いは口は悪いはでとんでもない娘だが、悪い子ではないんだ。そこのところは汲んでやって欲しいのだが」 「そ、そんなっ、こちらこそすみませんでしたっ」 突然謝られてしまって、何がなんだか分からないもののジェムも慌てて頭を下げる。 「彼女には危ないところを助けてもらい、あなたには倒れたところを介抱して頂きました。だいいち、ぼくが倒れたのだって別に彼女のせいという訳ではないんです。それなのにとんだご迷惑をおかけしてしまって申し訳なく思ってるんです」 「確かに君が倒れたのは、今までの疲れやストレスが溜まった結果だ。今倒れなくてもいずれ遠からず倒れただろう。けれど、少なくとも今回そのとどめを指したのはうちの娘だ。だからどうか謝らせてやってくれ。でなければこちらの気が晴れないのでな。それに…」 スティグマがふいに口許をにやりと歪め、そっとジェムに耳打ちする。 「今回のことはフィオリにとってもいい薬だ。お灸をすえるのに、悪いが少し協力してくれ」 「は、はぁ」 悪戯っぽく笑い彼はそう主張する。ジェムは仕方なくおずおずとうなずいた。 「でも、あの、助けてもらったことの感謝はさせて下さい。彼女にはまだ、お礼を言ってないんです。…その、どうもありがとう」 「どういたしまして」 恐る恐る感謝の言葉を述べると、少女は打って変わって弾けるような明るい笑みを浮かべた。彼女は胸に手を当てて小首をかしげる。 「そういえば、あなたとは自己紹介がまだだったわね。あたしはフィオリトゥーラ。フィオリって呼んでちょうだい」 「ジ、ジェムです。ぼくはジェム・リヴィングストーンと言います」 予想以上に気さくな彼女に戸惑ったように返事を返しながら、ジェムは彼女の笑みを見るのが始めてであることに気が付いた。そういえば今までずっと怒った顔しか見ていなかった。 「ここにいる間はあたしがあなたのお世話を仰せつかったわ。だからしばらくの間はよろしくね」 フィオリの白い手が力強く差し出される。少女特有のしなやかで柔らかい手のひらをジェムはおずおずと握り返した。 挨拶もひととおり済んだところで、この部屋の中では唯一のおとなであるスティグマが、子供たちに声をかけた。 「さて、君たち。今更だがあんまり病人の部屋に長居するものじゃないぞ。気疲れさせては治るものも治らなくなる。ジェム君にはまだたっぷりの休養が必要なんだからね。さあ、出て行った。出て行った」 「―――あ、あのっ」 「なんだい」 素直に退出する子供たちに続いて部屋を出ようとしていた彼は、その直前でジェムに呼び止められ足を止めた。部屋に取り残されたスティグマはどこか不安気な顔のジェムを不思議そうにみる。 「…その、ここはいったいどこでしょうか?」 「ここは君が倒れた場所から半時ばかり歩いたところにある小さな村だ。君は三日間も意識不明だったのだからゆっくり休まなくてはいけないよ」 スティグマは心配そうに眉をひそめ、優しく少年に尋ねた。 「何か、気がかりな事でもあるのかい。もし言いたいことがあるのなら遠慮せずに言ってくれて構わないよ」 「…いえ、なんでもないです」 しかしジェムは小さく首を振るだけだった。 「―――ジェム君、君の身体はまだけして本調子じゃない。この先もまだ旅を続けたいのならば、今は休むことだけを考えるんだ。これは医者としての命令だ。分かったかい」 医師は諭しつけるようにそう言ったが、その言葉にもジェムはやはりそぞろにうなずくだけ。スティグマは困ったように眉をひそめたが、結局はそのまま部屋を出ていった。
扉の閉まる音が静まり返った部屋に響く。けれどもジェムはずっと力なく俯くままだった。
だが突然、ジェムは何かに呼ばれたような気がして顔を上げた。 彼は恐る恐る寝台から降りて窓辺に近付いていく。何か不思議な力によって引き寄せられているかのように頼りない足取りで、しかしどうにかそこにたどり着いた彼は小刻みに震える指でそっと窓を開けた。 その瞬間、心地よい夜風がさっと室内に吹き込んだ。新鮮な空気が彼の頬を撫ぜる。 けれどジェムは、そのことに気付くことはできなかった。
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