第二章 4、「忘却の咎人」(2)

 

「何者って…、わたしは単なる町医者なんだが」
「そうだね。もしあなたが神殿に登録された本物の医者で、しかもこの国の人間だったらそれでよかったかもね」

 慎重に言葉を返すスティグマにシエロが無邪気ににこりと微笑みかけた。

「だが、お前は数ヶ月前突然この村にやって来た。街道筋にあるとはいえ、目ぼしいものも何もない田舎の小さな村にな」

 シエロの言葉を引き継ぎ、ゼーヴルムは厳しい眼差しをスティグマに向ける。

「村人に聞いた話では、別にこの村に親族がいるわけでもないらしい」
「おいおい、村人に聞き込みまでしていたのか。この村にきたのは単なる気まぐれで深い意味はないよ。それより、そんなことを聞いてどうするって言うんだい」
「ホントのこと言っちゃえば、俺なんかはあなたが何者だろうかどうでもいいと思ってるんだけど、一人やけに疑り深いやつがいてね」

 シエロはにやりとゼーヴルムを見る。疑り深いと言われた青年将校はふんと鼻を鳴らしその視線を無視した。

「だから言いたくないなら別に言う必要はないけど、ひとつだけ教えてほしいな。フィオリちゃん、あの子はあなたの何なのさ」
「――ああ、なるほどね」

 巡礼の子供たちは探るような目付きでスティグマを見ていたが、彼はようやく得心がいったとばかりに呑気にぽんと手をたたいた。

「何をそんな警戒していると思ったら…。娘とも思えない子供を連れまわす私を不信に思ったわけか」
「娘とは思えないって、どういう意味何だ?」

 年長者二人の企てをまったく感知していなかったらしいバッツが訝しげに首をかしげる。

「別に年齢的にだっておかしくないだろう。あの小娘の父親がこのドクターだって」
「小娘って、フィオリちゃんのほうがバッツよりも年上だろうよ」

 生意気盛りのその言い様に、さすがのシエロも苦笑してバッツをたしなめる。

「ちがう。おれは人間としての格を言っているんだ」
「つまりフィオリちゃんよりバッツのほうが人間として上だと」
「当然だ。おれは誇り高き『火の民』で、シャイフ=アサドの息子、フーゴのシェシュバツァルだぞ」
「とりあえず身辺の平和のために、彼女には言わないでおいてあげるよ」

 おれはまったく構わない、と無駄に胸を張るバッツを無視してゼーヴルムはスティグマをねめつけた。

「貴様はどう見てもノルズリ大陸の人間、典型的な『地の民』だ。一方あの少女は髪や目の色、耳の形などにことごとく『シルヴェストル(森の民)』の特徴を持っている。お前が肉親である確率は限りなく低く思えるのだが―――、」
「つまり、私のことを人攫いか何かだと思っているのかい?」
「そこまでは考えていない。だが、万が一何らかの犯罪行為にかかわっているのだとしたら、それ相応の対応はするつもりだ」

 灰色の鋭い眼差しを向けられ、スティグマはやれやれと呟き首を振った。

「分かった分かった。仕方がないな。だったら君たちには全部話してあげよう。しかし、なんとも詮索好きな子供たちだ」
「すまないね。そっちは俺たちのプライバシーを尊重してくれてるのに。だけど俺たちはどうしても用心深くなきゃいけないもんでさ」

 シエロは苦笑して肩をすくめた。

「いいさ。どうせ人に言えないようなことは何もない。私とフィオリは親子のようなものだよ。ただし、血は繋がっていないけれどもね」

 そう言ってスティグマは、ひとつの長い話を始めた。

 
 
 
 
 
  「―――恋人、だったらいいな、ってずっと思ってるの」

 彼女の言葉がそう続くのを聞いて、ジェムは思わずほうっとため息をついた。

「そ、そうだよね。ああ、びっくりした」

 ジェムは安堵に胸を抑えながら、汚してしまった布団を拭いていく。
 フィオリとスティグマは親子ほどもとは言わないが、たとえそうだとしてもそれほど不自然ではないぐらいには年が離れている。さすがにその年齢差では色々と危ういものがあるだろう。
 なんとなく不謹慎な想像をしてしまい顔を赤らめているジェムはそっちのけで、フィオリは目を伏せるとまぶたの裏の懐かしい記憶に思いを馳せた。

「もうずいぶん昔の話だわ。スティグマはね、身寄りを失ってしまったあたしを引き取って一緒に暮らしてくれたの。縁もゆかりも無い、まったくの他人のあたしをね」

 フィオリは眉をひそめて苦笑した。

「本当にお人好しよね。いくら森の中でぴいぴい泣いていた子供に同情したからって、九年間も育てていこうなんて並大抵のことじゃないわ。スティグマもまだ若くて人生これからって時だったのに」
「まだ、若い…」

 思わず復唱してしまったジェムを、フィオリはきっと咎めるような目でねめつける。

「あのねぇ、スティグマ結構老けて見えるけど、あれでまだ三十一なの。男盛りなのっ」
「そっ、そうなんだ」

 フィオリのかなりの迫力に、ジェムは慌ててうんうんと追従した。これでさらに余計なことでも言おうものなら、何が起こるか想像もつかない。いや、むしろ考えるだに恐ろしい。

 現在の年齢が三十一歳ということは、フィオリを拾ったのは二十二歳のときだ。今のジェムからすればだいぶ大人に感じるが、たぶんそれでもその年でひとりの子供を育てようとするのは生半可な決意ではできないことだろう。

「じゃあ、フィオリさんとスティグマさんの絆ってすごい強いんですね」

 それは今や本物の家族となんら変わりはないほどに。
 あるいは、もはや本物の家族、それ以上に―――。

「そうっ。そうなの」

 その言葉にフィオリはまるで幼い子供のように瞳を輝かせた。がっしりと胸の前で手を組むと、酔いしれているかようにうっとりと双眸を伏せる。その様子はジェムの目からもはっきりと分かるほど嬉しげだった。

「あたしはスティグマが大好きだわ。スティグマはノルズリ(北の)大陸の人間だけど、そんなことまったく関係ないくらいに大好きよ。これは育ててもらった恩を感じてるからだけじゃないわ。いつかはスティグマのお嫁さんにしてもらいたいと、真剣に考えているんだから」

 歌うように堂々と公言したフィオリだが、でもね、とちょっと拗ねた眼差しを浮かべると唇を尖らせた。

「スティグマは本気にはしてくれないんだけどね」
「そ、そうですか」

 ジェムは引きつった顔のまま相槌を打った。再び会話が苦手な分野へと変わってしまったため、ジェムはなんとか話題を変えようと、取り急ぎふと脳裏をかすめた疑問をそのまま口にした。

「じゃ、じゃあ、ええっと、スティグマさんのことはいいとして、―――本当のご両親は…?」

 ただ、何の気なしに呟いた言葉だった。

 それは単なるお喋りで、そこには何の他意も無かった。
 だが次の瞬間、ジェムが目にしたのはフィオリの呆然とした眼差しだった。

 今までずっと明るく気さくだった少女はふっと押し黙り、彼女を取り巻く空気すら突如として冷たく硬質なものに変わった。

「…両親は、死んだわ。戦争に巻き込まれて、二人とも」

 フィオリは視線を落とし、ぽつりと呟いた。

「―――っ」

 その痛々しい表情を見て、ジェムは反射的に自分の頭を思い切り殴りたい衝動に駆られた。
 今度こそ聞くべきではないことを聞いてしまったのだと、ジェムは自分の言動をひどく恥じた。

 身寄りはないのだと、彼女は自らそう言っていたではないか。
 それを自分は確かにこの耳で聞いたではないか。

 少し考えれば家族がいないことぐらいはすぐにわかったはずだ。なのにこの問いは、あまりにも無神経なものだった。だが、一度口に出してしまった言葉はもはや消すことはできない。

 深く後悔するジェムではあったが、同時に彼が想い抱いたのは九年の歳月を経ていまだ心に深い傷を宿し続けている彼女に対しての、強い同情の思いだった。

「…ぼくの生まれたノルズリ大陸では、考えられない事です。フィオリさん―――、」

 まるで自分の吐いた失言を打ち消そうとするように、ジェムは痛ましげな眼差しを彼女に向けた。

「かわいそうに」


 
 

 だが―――、


 
 

  がたんっ
 

 フィオリは突然音を立てて椅子から立ち上がった。

「ど、どうしたんですか、フィオリさ―――、」
「ノルズリ大陸ですって…っ?」

 不思議そうなジェムの声を断ち切るような、痛切な声が室内に響いた。
 ふいに部屋がシン、と静まり返る。

 薔薇色だった少女の頬は白く、血の気を失っている。その唇はわなわなと震え、表情はまるで憎い仇と対峙しているかのように固く強張っていた。
 ジェムは何も分からずただおろおろと心配そうにフィオリを見ていたが、少女はきっと顔を上げると強く、鋭い眼差しでジェムをにらみつけた。

「…そんな薄っぺらい同情の言葉を口にしないでっ。あなたからは、あなたのようなノルズリ大陸の人間からだけは、そんな言葉は聞きたくないわ!」

 唐突なまでに、憎しみすらこめられたその視線を、
 ジェムは呆然として受け止めた。