第二章 7、「追憶の痛み」(1)

 


 開いた窓から風が入ってきた。
 冷たさを孕んだ気流はカーテンを揺らし、室内にいる人間の肌を無遠慮に撫でる。

「あの、シエロさん。窓を閉めてもらえますか。それからカーテンも…」
「いいよ」

 窓際の壁に背を預けていたシエロはゆったりと微笑み窓を閉め、カーテンを閉じる。
 密閉された室内に薄暗さとどこか停滞した空気が充満した。屋外からの音もまた遮断され、部屋には妙な静けさだけがある。

「…それで、心の準備とやらはできたのかよ」

 不意に沈黙を破り、不貞腐れたような声でそう訊ねたのは板張りの床に直接あぐらを掻き頬杖を着いているシェシュバツァルだ。その目は不機嫌そうにジェムをにらんでいる。
 ゼーヴルムほどではないものの彼もまた眼つきがいいほうとは言えない。事実彼の琥珀色の瞳は今も薄闇の中、金色に底光りしている。並外れて鋭いその瞳は、どこか野生の獣を連想させた。

「―――はい。お待たせしました」

 ジェムは息をつくとゆっくりとうなずく。声が細かく震えているのを、彼自身はっきりと自覚していたのだけれども。



 ルーチェと別れ、そして無事シエロたちと合流を果たしたあと、何よりも先にジェムがしたことは、一刻も早くその場から移動するように、できることならどこかの街に入るようにみんなに強く頼み込むことだった。
 だが、騒動を起こしたのは他ならぬジェム本人である。さらにほんのちょっと見ない間に負っていたひどい怪我のことも気にかかる。
 一同はまず事情を説明するほうが先だと主張したがジェムは頑として意見を譲らなかった。これは、付和雷同を常とするジェムの性格からして非常に珍しいことであった。

 押し問答の末、結局彼らは夜通し歩き続け、何とか夜明け頃には街道筋にあるこの町へ到着した。
 そして寝ぼけ眼の宿屋の主人をたたき起こすことを始め、さまざまな困難を乗り越えて、彼らはようやく部屋を取るところまでたどり着いたのだった。

 けれど、だからといって全てが上手くいくわけではない。いざ話を聞こうとしたその時には、ジェムはすでに体力の限界だったのか気絶したかのようにその場で眠りこけていた。彼らははっとしたが、時すでに遅し。こうなってしまったらあとはもう呼んでも叩いてもいっこうに目覚めない。

 まあジェムは崖から転落し意識を失っていた短い間を抜かせば昨夜は一睡もしていないことになる。ほっとしたというのもあるだろうが、なにより病み上がりの、しかも負傷した身体を酷使して来たのだ。よくぞここまで持ったと言ってあげてもいいだろう。

「まあ、お楽しみは最後までとっといた方が嬉しさも倍増だしね」

 と、あまり的に嵌ってない意見を述べたのはシエロである。
 結局スティグマのドクターストップがかかったこともあり、彼らはジェムが起きるのをやきもきしながら待つことになった。




 そして夕刻、目を覚ましたジェムは部屋に全員を集めた。そして話をするがその前に、ほんの少しだけ心の準備をする時間が欲しいと言ったのだった。




「…何と、言ったらいいんでしょうか」

 話し始めたジェムはうつむきぽつりとつぶやいた。

「もしかしたらこれは途方もなく単純で、恐ろしくありきたりな話なのかもしれません。ただひとつ言えることは、これは酷く危険な話だということ。ぼくはぼくが語ることでみんなを危険にさらすこと、それだけが何よりも怖いんです…」
「御託はいいからさっさと話せよ」

 すねた口調でバッツが野次を飛ばす。それを視線のひとつでたしなめながらも淡々とゼーヴルムも話の続きを促した。

「ジェム・リヴィングストーン、我らが貴様の話を聞くことは我々が自ら望んで決めたことだ。例え何が起ころうと貴様が気に病むことではない」

 ジェムは小さくうなずく。

「ではまずは…、これを見てください」

 ジェムは自らの上着のボタンをはずした。肌着も脱ぎ捨て、裸体を晒す。
 ジェムの白い素肌は暗い部屋の中に浮かび上がるようだった。
 未完成の少年の体躯はどこか危うく頼りなさを感じさせる。たぶん同年代の少年の内でも華奢なほうなのだろう。痩せたその身体は細く薄く、あばら骨が浮いて見えた。 だが重要なのはそんなことではない。
 その小さな身体を見たとき、部屋にいたほとんどの人間が目を見張り息を呑んだ。

 その原因は、少年の身体に走る痛ましい傷跡。
  肉色もまだ鮮やかに、引き攣れた傷痕だった。

 もちろん崖から落ちた際に負った怪我もたくさんある。見るだけで痛そうな打ち身や擦過傷も生々しく残っている。
 だが何より目を引いたのは古い傷跡の方だった。
  少年の細い身体にあるにはあまりにも無残。その痛々しい痕はジェムの左の肩口から右のわき腹まで一直線に刻まれている。
 息を呑んだフィオリが思わず立てた椅子の音が妙に白々しく部屋に響いた。

「それは…、刀傷か?」

 現役の軍人としてそれなりの人生経験は積んでいるはずのゼーヴルムが信じ難いと言わんばかりの表情で呟いた。
 袈裟懸けにつけられたその傷は、よく見れば適切な処置をすれば致命傷には至らない程度だと分かる。だが今でもまだ子供の範疇に入るジェムに、当時いったい誰が何の目的でこのような傷を与えたのか。ゼーヴルムは咽喉の奥で唸った。

「ああ、なるほどね」

 壁に寄りかかったシエロがわずかに顔をしかめ顎をさすった。

「ベルさんが何でここまでジェムにこだわるのかと思ったら、あなたはこの傷のことを知ってたんだね」

 部屋のあちこちから視線が集まり、部屋の中で唯一驚かなかった彼はため息ひとつでそれを肯定した。

「そうだ。彼の容態を診たときに気がついた。こんなものを見たら、もう大人としてはほっとくわけには行かないだろう」

 本当なら、もっとさりげなく事情を聞きたかったんだがな。とスティグマは今更ながらにため息を漏らした。

「ジェム…、その傷はいったい何なんだ?」

 バッツが遠慮がちに問いかける。

「これは戒めです」

 ジェムはそっと身体に残る傷跡に触れた。
  ジェムはこの傷を与えられたそのときの痛みを鮮明に思い出すことができた。

 否。忘れることはけしてできなかった。

「これは戒めであり、罰であり、証…。これはぼくがけして許されることがない罪人であることの証明なんです」

 スティグマがかすかに顔色を変えたがジェムはそれに気付かない。
 ジェムは震えだす己が身をひしと抱きしめた。
 この身が震えるのはけして寒いわけではない。寒いわけではないのだが―――、

「ジェム」

 少年ははっとして顔を上げた。
 シエロはジェムの肩に自分の上着をかける。

「俺たちはジェムの事情を聞くことに依存はない。だけどジェムのほうはいいのかい? ジェムは自分のことを語ってしまって本当にかまわないのかい?」

 暗に無理して話す必要はない、そう言われジェムは首を振った。

「大丈夫です。もう決心はついています」

 ジェムは掛けられた上着の前身ごろをぎゅっと握った。すでに震えは止まっている。
 後は前に進むだけだ。

「どうか聞いてください。なぜぼくがこの傷を負ったのか。そして、ぼくがいったい誰なのか―――、」

 その、長い長い話を…。
 ジェムはそっとまぶたを伏せた。



    ※ ※ ※



  かつてノルズリ大陸にひとりの少年がいた。

 彼が暮らしていたのは片田舎の屋敷。少年には父も母もおらず、その代わりのように大勢の使用人や召使たちに囲まれて暮らしていた。
 けれど、本人はけしてそのことを特別なことだとは思っていなかった。何しろ彼の周りには自分以外の子供は一人もいない。比較する対象が無かったために、違和感も不満も感じることはなかったのである。

 彼には両親はいなかったが何ヶ月かに一度訪ねてくる人物がいた。五十はとうに過ぎている、矍鑠(かくしゃく)とした老人だ。
  どうやらその初老の男こそがその屋敷の本当の主であるらしく、屋敷に勤める使用人の誰もが彼には深々と頭を下げた。少年の方もその老人こそが自分の家族であろうことを薄々ながら感じていた。少年を相手にする時だけは老人の鋭い眼光もわずかにやわらいだからだ。

 ただ、その老人はけして自分のことを「祖父」とは呼ばせなかった。だから彼はその老人を他の使用人同様に「お方様」、とそう呼んでいた。そのことに不満はなかった。

 傍から見ればそれは奇妙な生活だっただろう。しかし少年は特に不自由なく過ごしていった。家族がいなくとも、同じ年頃の友人がいなくとも、すねることも捻くれることなく健やかに、すくすくと成長していった。


 それは静かで空虚な生活。
 しかしけして不幸ではない毎日。


 少年は、このままここで自分は成長するのだろうと思っていた。このままここで大きくなって、そしてここで生きていく。そのことになんの違和感も感じずに。

 しかしこのまま永遠と続くだろうと思われた単調で穏やかな日々に、ある日突然、終焉が訪れた。
 八つになった少年は突然屋敷を出されたのである。

 もちろん、それは当然着の身着のまま放り出されたということではない。
 少年は寄宿学校に移されたのであった。

 そのこと自体はさして珍しくもなんともない。貴族の子弟などにとってはごく当たり前の習慣であると言ってもいいだろう。

 しかし少年はひどく悲しんだ。慣れ親しんだ使用人とも稀に訪ねて来てくれたあの唯一の家族であろう老人とも、もはや会うことはできなくなったからだ。

  自分は要らなくなってしまったのだろうか。
   捨てられてしまったのだろうか。

 そう考えるとひどく胸が痛み、何に対しても手が付かなくなった。

 けれど、ただひたすらに悲しみに暮れ塞ぎ込んでいた少年は、ある時ふいにひとつの考えにいたった。
 もし、自分が今与えられている課題をすべて、それも限りなく優秀な形でやりとげれば、いつかはまたあの家に帰してもらえるのではないだろうか、と。
 捨ててしまったのは間違いだったと、やっぱり必要なのだとそう思い直してくれるのではないだろうか。

 そんな淡い期待を胸に灯した時、少年は今までの分を取り返すように必死の努力を始めた。
 それが、とてつもない悲劇を引き起こすとも知らずに…。