第二章 7、「追憶の痛み」(2)

 

 
  ジジッ…  
 蝋燭の炎がかすかに音を立てて揺らめく。
 燃え尽きかけた最後の火を新しい芯に移し、労いを掛けるように一方の蝋燭を吹き消す。そのとたん、壁の影が大きく揺らいだ。
 手早く作業を進めながら、スティグマの意識はずっとジェムに向けられている。

「少年は必死で勉強しました。彼の思いはそれほどまでに強かったのか、少年は一種異様とも言える熱心さでさまざまな知識を吸収していきました。しかし彼の努力とは裏腹に、彼のかつての家からの迎えは来ることはけしてありませんでした」

 ジェムは目をわずかに伏せ、とつとつと物語を語っていく。
 静かに。
 ひと欠片の感情を込めず。
 その様子はまるで言葉を話すだけの人形のようにも見えた。
 他人事ででもあるかのようにそこには何の表情も浮かんでない。ジェムは一度もその話の主人公を「ぼく」とは呼ばなかった。

「少年は、たぶんごく普通の子供だったんです。育った境遇だけは少しだけ特殊だったのかもしれませんが、弱虫で、泣き虫で、想像力だけは豊かで、でもその所為でちょっと思い込みが強くて…。彼はすごくすごく頑張ったんです。人の何倍も努力して。やがて、行為と目的が入れ替わってしまうぐらいに」

  夢を、追いかけたんです。

 か細い声がほんのかすかに吐息に混じった。

 物語の主人公は、どこにでもいるような当たり前の子供。
 何事もなく、普通に暮らしていれさえすればきっと当たり前の大人に成長しただろう。そして平凡でつまらない、だけど幸せな人生を送ることもできただろう。
 だけど少年はある才能を持っていた。
 それは目標に向かって人よりほんの少しだけ、がむしゃらになれる才能。望みに手を伸ばす事に夢中になれる性質。
 幼い頃には、きっと誰もが持っていた能力。

 彼は片目をわずかにすがめると、小さく息を吸い込んだ。

「そこはノルズリ大陸でも有数の学院でした。大陸中から優秀な子供を集め英才教育を施すための場所。しかしそこにはもうひとつ別の役割があったのです」



 ※ ※ ※ 



 もちろん優秀な子供も集められはした。しかしそこには同時に特権階級の人間の子供、しかも世間には公にはできない立場にある子供が集っていたのだった。

 何も分からぬままその寄宿舎に連れてこられた少年だったが、そうした子供たちと交わるにつれてやがてなんとなくだが自分の立場が把握できていった。
 自分も彼らと同じように訳有ってここに預けられた子供であるのだろうと。

 だとすれば自分が迎えに来てもらえる望みは限りなく薄い。それを分かっていながらも少年は努力をやめることはできなくなっていた。
 かすかな望みにしがみついているということもあっただろう。だが少年はそうすること以外に自分の存在価値を見出せないでいたのだ。

 空ろな心の少年はそのからっぽな身体の中にただ知識だけを詰め込んでいく。始めは単純な作業の繰り返しだったが、やがて少年はそこに喜びを見出していった。

 彼の家族はけして彼を認めてはくれなかった。しかし、その学び舎には他に自分を認めてくれる人間がたくさんいた。少年はその期待に応えることに幸せを覚えていった。

 やがて少年の努力を実を結んだ。かと言って家族が迎えに来てくれたわけではない。
 少年はこれまでの常識を覆す異例の年齢でサチェス神学院、すなわち世界で最も定評のある学び舎・北の学院への入学を許可されたのだった。



 ※ ※ ※ 



「その時、彼はまだ十歳になったばかりでした」
「十歳!? まさかそんなっ」

 ジェムの言葉に反応を示したのは、ジェムと同じノルズリ大陸出身のスティグマだけだった。彼は手に持っていた蝋燭の残りを思わず床に転がす。他のみんなはただきょとんとするばかりだ。

「ドクター、それってもしかすると…すごいのか?」
「すごいってもんじゃないよっ」

 スティグマは興奮覚めやらぬようすで髪を掻いた。

「もしそれが確かなら、その子供は稀に見る天才、神童だよ。北の学院から入学を許可される平均年齢を教えようか? 十七歳だよ、十七歳。それだって、誰もが許可されるわけじゃない。一部の、優秀な、選ばれた人間しか入ることができないんだ。俺が知る限り最も早く入った人間だって確か十四歳だったはずだ」

 その時だってだいぶ大騒ぎだったんだぞ、とスティグマは息を呑む。

「なるほど、その最年少記録を四歳も更新するのはただ事じゃないな」

 シエロもうんうんとうなずいた。

「だけど、不遇な子供が世間に認められてめでたしめでたし。で終わる話ではないんだろう。それから、いったい何があったんだい?」

 ジェムは小さく首を動かす。

「少年は北の学院で勉強しました。それからの二年間が彼にとってもっとも幸せで充実していた日々だったと思います。幼いころ育った屋敷のこと、会いに来てくれた男性のこともいつの間にか遠い日の夢のように思うようになっていきました。それほどまでに少年の今の生活は満ち足りたものだったのです。けれども過去は、けして少年のほうを忘れたりはしていませんでした―――、」





   遠いある日。


 少年には学び舎で使っているのとは違うもうひとつの名前があった。それはかつての屋敷で使っていた名前であり寄宿学校に移されたときに、けして名乗っても使ってもならないと強く強要された名前でもある。
 少年は言いつけ通りその名前を人に告げたことは一度もなかったが、こう感じてもいた。
 自分がこの名前を覚えている限り、あの家と自分との繋がりは切れることはないのだと。
 それが今となっては少年の唯一の慰めだった。

 そしてそれは悲しいまでに、真実だったのである。



   ※ ※ ※



 少年が北の学院に入り二年が経とうとしていた。その異例の年齢にもかかわらず学院の教員、及び生徒たちはみな少年を受け入れてくれた。もちろん、やっかみ半分の中傷も無くはなかったが、素直で明るい天才少年をみんなかわいい弟のように思っていたのだ。

 少年が十二歳の誕生日を迎えた日、学院で少年と特に親しい友人たちが彼のためにささやかなパーティーを開いてくれた。もちろん、ささやかとは言ってもそこは学生だ。夜を徹してのどんちゃん騒ぎである。たぶん少年のためのお祝いと言うよりかはみんなで浮かれ騒ぐきっかけが欲しかったのだろう。
 けれどそれでも少年はとても嬉しかった。その夜だけは普段は規則正しい生活を送っていた少年も夜更かしをして楽しんだほどだ。

 しかし、悲劇はその夜に起こった。



  「少年は騒ぎ疲れて火照った身体を冷ますために外に出ました。そこで彼は一人の人間にあったのです。その人は少年に向かってこう言いました。思い上がるな、と…」



 そして、悪夢は幕を開いた。