第三章 正しい魔法の使い方 (4)

 

 誰もが唖然とした顔でその場に立ち尽くした。

「え……? 今のは、一体なんだったんだ」

 一連の展開についていけていないバッツが頼むようにセルバを見る。しかしセルバも上手く事情が飲み込めていないようで、呆然と首を振った。

「分からない……。セルバも、こんなこと初めてだ」
「少なくとも、召喚は失敗ということかな」

 シエロはつぶやくが、しかしセルバはぶんぶんとかぶりを振った。

「でも、セルバが召喚したのはもっとも低位に近い精霊なの。あんな最低位の精霊で召喚を失敗するなんて聞いたことがないよ」
「…………」

 その言葉に、深く俯いたジェムはひとりぎゅっと唇を噛みしめた。

「だが先ほどの精霊の言葉を省みるに、失敗の原因はただの力不足などという軽々しい理由ではないようだぞ」

 憂鬱そうに眉をひそめ、ふうとゼーヴルムがため息をついた。シエロも先ほどの精霊との会話を思い出しながら、うぅむ、とうなる。

「もしかすると地の民は全般的に精霊魔法と相性が悪いとか。でも、そんなこと今まで聞いたことないしな……。ねぇ、さっきの精霊なんて言ってたっけ。確か、『呪われし五欲の民』……?」
「じゃあやっぱり、北の大陸の人間であることがいけないのかも」

 バッツが驚いたように顔を上げた。

「『地の民』なのが原因なのかっ?」
「〜〜〜〜っっ!」

 その途端。
 ジェムが突然、ばっと身を翻した。
 それまで無言で俯いていた彼は、森の奥に向かって一目散に駆け出す。

「えっ、ジェム?」
「おい、どこへいくんだっ」

 仲間の静止も聞かず、少年の姿は森の木立に消えた。
 最初は呆然とその後姿を見送っていた彼らだが、徐々にその顔が青ざめていった。

「た、大変だ。すぐに追いかけなきゃっ」

 シエロが叫び、その後を追おうと慌てて足を踏み出す。しかし……、

「放っておけ」

 思いも寄らない冷たい声に彼はぎょっとして振り返った。

「ゼーヴルム……」
「追わなくていい。気が済めば自分から戻ってくるだろう」

 黒髪の青年は素っ気無くそう言い放つ。

 けれど彼らは追われてこの森に逃げ込んできたという経緯がある。
 ジェムを一人にしておくことは心配だ。シエロはそう主張するのだが、ゼーヴルムは逆にしつこいと言わんばかりに首を振った。

「シエロ・ヴァガンス。貴様はジェムに関しては少々過保護が過ぎるな」
「……俺は君がそんなに冷たい人間だったということにびっくりだよ」

 シエロは眉をひそめゼーヴルムを睨みつける。

「もしかするとてめぇは、自分の意見を無視して戦い方を学ぼうとしたジェムに腹を立てているんじゃないのか」

 探るような疑うような、そんな眼差しを向けるバッツに、ゼーヴルムは険のある表情で一笑、鼻を鳴らした。

「くだらない。貴様の邪推はまるで的外れだな」
「邪推だとっ」
「ねぇ、待ってっ。それは――げほっ、ごほごほ……っ」

 苦しげな咳払いにシエロたちは慌てて振り返った。

「セルバ!」
「おいおい、大丈夫かよ!?」

 白髪の少年はその場にうずくまり、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返している。合い間に何度も鋭い咳が続いた。

「……ごほっ、ごめんね。最近あんまり出なかったんだけど――ぐぅっ」
「無理して喋んなくっていい。落ち着いて、ゆっくり呼吸をするんだ」

 シエロはセルバの背をさする。
 しばらくその状態が続き、やがて少年は咳き込みながらもどうにか呼吸を取り戻した。

「―――こふっ、はぁ。騒がせちゃって、ごめんね。もう大丈夫だから」

 ぐいっと口元をぬぐう。翠の右目に涙を滲ませてはいたが、セルバはふにゃりといつもの笑みを浮かべた。

「もしかして、持病かなんかか」

 バッツは恐る恐るたずねるがセルバは、ううん、と首を振った。

「そういうのとは、ちょっと違うの。たまにちょっと咳が出るだけ。でも大したことはないから気にしないで。それより喧嘩を邪魔しちゃってごめんね。どうぞ続けて」
「……」

 続けてくれと言われても、こうなるとそれもなかなか難しい。すっかり気が削がれてしまったバッツは、ちらりとゼーヴルムを見たが軽く睨みつけるだけにとどめた。

「ゼーヴルム」

 一方思案気に眉を寄せていたシエロは、おもむろに顔をあげて彼に言った。

「俺たちはこれまでずっと一緒に旅してきたよね。だから俺は君を信じることにする。ジェムのことは、君に任せるよ」
「お、おいっ、シエロっ!?」

 落ち着きかけていたバッツがぎょっとしてシエロを見た。理解できないと言わんばかりに清ました顔の青年を咎める。

「何ふざけた事を言ってんだよ。ジェムの身に何か起こったらどうすんだっ。こんな薄情野郎の言うことなんか無視してさっさと探しにいこうぜ」
「あっ、待ってよ。バッツ君」

 今にも走っていこうとする少年の肩を今度はセルバが掴んだ。バッツは病み上がりの彼への対応に少し戸惑ったようだが、結局は憤懣やるかたないという顔でセルバを怒鳴りつけた。

「何だよ、てめぇも薄情野郎の仲間なのか!」
「そんなことないよ。ジェム君が心配なのはセルバもおんなじ。でもその前に話を聞かなきゃ。どうして探しに行かないんですか、って」

 探しに行くのはそれからでも遅くはないと思うよ。邪気のまったく感じられない口調でそう言われ、バッツは迷いながらもしぶしぶと歩調を緩めた。
 シエロもほっと喜色を浮かべる。もっともその顔は苦笑に近い。

「釈明の機会をありがとう」

 そしてちらりと視線を向けるが、ゼーヴルムはただ黙々と朝食の下ごしらえを続けている。彼からは何も言うことがないらしい。シエロは、仕方がない、とひょいと肩をすくめた。

「まぁいいや。あのね、バッツ君。あれやこれやと気を回し、何でも率先してやろうというのはとても良い事だよ。でもそれは同時に、非常に容易いことでもある」
「はぁ?」

 バッツは納得がいかないとばかりにシエロを睨みつけるが、彼は当然の顔をしてうんうんとうなずく。

「要するに何でも人任せにする奴はただの無能だけど、何一つ人に任せられずあちこち首を突っ込むのも器の小さな証ということさ。人には人のやり方がある。それを納得いかないからといって邪魔をするのも無粋だよ」

 君は野暮な小者なのか、それとも気が利く上に懐深い人間なのか。
 揶揄するようにそう言われ、果たしてバッツが黙っていられるわけがなかった。

「馬鹿にすんなっ。おれをいったい誰だと思ってる! シャイフ=アサドの息子、フーゴのシェシュバツァルだぞ。それを狭量な小人物だなんて愚弄するにもほどがあるっ」 
「いや、さすがにそこまでは言ってないけど」

 あまりの激昂にシエロは呆気に取られるが、しかしバッツは聞いてない。

「ゼーヴルムっ」

 バッツはがつがつと足音を立てて彼に近付くと、びしりと指を突きつけた。

「ジェムのことはお前に一任してやる。その代わりもし万が一ジェムに何かあった場合は、もうお前のやることは二度と信用してやらないからそう思えっ」
「ありがたいことだな」

 ゼーヴルムは穀物の粉を水でこねながら素っ気無く答える。

 バッツはふんと鼻を鳴らすと、再び荒い足取りで焚き火とは逆方向の森へ向かった。
 一瞬、どこに行くのかと思ったが、どうやら彼の習慣である夜の礼拝をしに行くらしい。ならばそう遠くまでは行くまいと止めずに見送った。

「シエロさんはとても口がお上手ね」
「そりゃ褒められているんだか貶されてるんだか……」

 シエロは苦笑した。

 誇り高いバッツのことだ。ああいう言い方をされれば、矜持が先に立ちシエロたちに反対することはできないだろうことは分かっていた。
 もっとも彼のためを思うなら、そのうち誰かがその欠点を指摘してやる必要がある。

 まあ、このままの方が扱いやすいのは確かだけど。と、シエロがそんなことを考えていると、不思議そうな顔のセルバが首をかしげて彼を見ていた。

「でもどうして君はジェムを探しに行くのを止めてしまったの?」
「ああ、それならさっきバッツに言ったとおりだよ」

 両手を広げてシエロは肩をすくめる。
 あんなに心配そうだったのに存外あっさりと探索を止めてしまったのはたしかに不思議に思えるが、彼は面白がるようにゼーヴルムを見た。

「信じて待つのもたまにいいかな、ってね。だいたい面倒見の良いこの軍人さんが本気でジェムを見捨てる訳がないだろう。要は彼がジェムを助けると言うことだろう。だったら邪魔せずお任せするのが筋ってもんだ」

 シエロは人差し指をくるりと回し、にんまりと吊り上げた唇にあてがう。
 彼はよっこいしょ、とジジくさい掛け声とともに立ち上がり、当初の夜営場所へ戻りがてらゼーヴルムに激励を振るった。

「と、いうことでみんなの期待を一身に背負ってるんだ。精々頑張って、つまらない失敗はすんなよ」
「ジェム君をよろしくねっ。とても落ち込んでたみたいだから慰めてあげて」

 セルバもせがむように彼を見て、二人は万事安泰とばかりに帰っていく。
 そんな彼らの背を見送り、乾いた布で粉まみれの手をぬぐうゼーヴルムは憮然とつぶやいた。

「……誰も、ジェムのことは任せろなどと言ってないんだがな」

 それがどのようなつもりで言われたにしろ、聞いている人間はすでにどこにもいなかった。


 
 
 
 


 
 
 
 

            ※    ※    ※


 
 
 
 


 
 
 
 

誰も、悪くない
生まれながらの罪びとなんてどこにもいない

そうとは分かっているのに
それでも
何かの拍子に、こう考えずにはいられない

君たちさえいなければ
この世に存在さえしていなければ
こんな辛い思いをせずにすんだのに、と
――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ジェムははっと瞼を開くと、霞がかった頭を片手で支えかぶりを振った。
 頭がぼんやりして、目がしばしばする。

 彼がいるのは崖に穿たれた小さな洞穴だった。
 偶然発見したこの場所は入り口はともかく中はまあまあ広く、焚き火跡を始め、かつて他の旅人も利用していた形跡が残されている。
 明かりも何も持たずにここに逃げ込んだジェムだったが、服の隠しに火打石が入りっぱなしだったのに気付き、着いてすぐ先人に真似てそこに火を起こした。

 どうやら自分は泣き疲れて眠ってしまったようだ。おまけに何だかおかしな夢も見た。
 ジェムは涙の跡でがさがさになった頬をさすりながら嘆息する。

 実のところを言うなら、このような夢を見るのはこれが初めてではない。巡礼を始めて、ここアウストリ大陸に足を踏み入れたあたりから、たびたびこれまでにはないおかしな夢を見るようになった。
 ただそれがどんな夢かというと上手く表現することはできない。夢から覚めて、その内容を思い出そうとすると途端、まるでざるから水が毀れるように忘れてしまうからだ。

 もっとも目覚めた後に残る感情、悲しみや遣る瀬なさだけは妙に心に居座り続ける。
 おかしな事だとは思いつつも、やはり単なる夢だろうと考え、ジェムはそのことを誰にも告げずにいた。

 ぱちりと、焚き火にくべた小枝が弾ける。

 それにつられた様に、深いため息がジェムの口から漏れた。自分に対する嫌悪感が全身を満たしていた。

 突然何も言わずにあの場所を飛び出してしまい、みんなにとても迷惑をかけてしまっただろうことは分かっている。でもあのままあそこに居続けることはジェムにはできなかった。


 (――あんな最低位の精霊で召喚を失敗するなんて聞いたことがないよ)
 

 セルバの漏らした言葉が鋭く胸に突き刺さる。ジェムは再び泣きそうに眉をひそめた。

 あれだけ大騒ぎし、みんなの手を煩わせて、結局自分は何一つ得る事ができなかった。
 なんて情けなく、みっともないことだろう。
 ジェムはうつむきぎゅっと膝を抱える。

 セルバに召喚してもらった地の精霊はことのほか『地の民』を嫌っていたようだ。
 だがそれがどのような理由に起因することであれ、結局ジェムが役立たずであることには変わりがない。
 むしろ自分に何かしらの落ち度があるならば努力しだいで改善できるかもしれないが、ノルズリ大陸の人間であることはジェムにはどうにもできないことだ。

 泣き疲れて眠るほど落ち込んでいたくせに、また懲りもせず鬱屈した気分がぶり返してくる。

(――ぼくは本当に無力だ……)

 ジェムは再び塞ぎこみ、心内でそう呟いた。
 自分一人では他人の役に立つどころか、身を守ることすらおぼつかない。

(……と言うか、むしろ今の状況こそとても危険なんじゃ)

 ジェムはふっと顔を上げた。

 当然のことだがここには結界を張ってくれるシエロもいなければ、代わりに戦ってくれるバッツもゼーヴルムもいない。
 昼間は運よく逃げ出して来れたが、それでも次、いつどんな襲来があるか分かったものではない。

 果たしていざとなった時、どうやって自分の身を守ればいいのか。
 ジェムは今更になって自分がいかに軽率であったかに気付いた。

「み、みんなのところに戻らなきゃ……」

 自分の取るに足らない羞恥心や意地などはもうどうだっていい。少なくとも今は急いで仲間の元に帰らなければ。
 多少短絡的な部分があっても、そう割り切れるぐらいにはジェムは賢明な少年だった。
 なにせ、さもなければ彼らによりとんでもない迷惑をかけてしまうかもしれない。

 慌てて帰り支度をするジェムだったが、ふいに彼は身を強張らせた。

 下草を掻き分け砂利を踏むかすかな物音。

 折もあろうに誰かがこの洞穴にやってきたのだ。
 目隠しするように岩が張り出しているため、入り口からは自分を見ることはできない。だが数歩踏み込めばすぐに見つかってしまうだろう。

 闖入者の持つランプが壁に不気味な影を揺らす。

 しかしジェムにできることと言えば、怯えて縮こまっていることぐらいしかなかった。この先の凄惨な展開を想像し、思わず少年の目に涙が滲む。

(やだっ、誰か……、『みんな』助けて!)

 ジェムは頭を抱えてしゃがみこむ。
 ついに、彼の身をランプの明かりが隈なく照らした。

「……お前は、よく泣いているな」
「――えっ?」

 ジェムはぎょっとして顔を上げる。

 そこには黒髪の青年軍士、ようするにゼーヴルムが、なんとも難しい顔付きで立ち尽くしていた。