第三章 5、緑の守護者(3)

 


 不可視の刃があたりを飛び回る。
 余波で周囲の枝葉を断ち切るそれは、高速の風刃。
 高度な風霊魔法を自在に操りながら、彼は訴える。

「貴方にはとても世話になった。本当に、言葉にしつくせない程感謝している。だからユズリハ、僕は貴方を傷つけたくはない」

 まっすぐに視線を向けるその顔は、限りない苦渋に満ちていた。

「どうかここを通してくれ」
「なりませんっ」

 返す言葉はわずかな躊躇も無かった。
 まとう衣も白緑の髪も白木のような皮膚も、鋭い風の刃で痛々しいほど切り裂かれている。だがその人は一歩も引かず、同じようにまっすぐ相手を見つめ返していた。

「あの方を殺めることは大罪です。どうか考え直して下さいっ。さもなければ、わたくしこそあなたを殺さなければならない!」

 咽喉も張り裂かんばかりの激しさを抱きながらも、しかし声はわずかに震えている。
 真紅の左目を細め、彼――セルバは悲しげに呟いた。

「残念だ……」

 セルバは相手に手のひらを向ける。そこに強い魔法の力が集約した。

「ユズリハ、分かってくれとは言わない。だけど僕には、もう時間がないんだ。みんなが安心して暮らせる世界を作りたい。そのためだったら僕は――、」
「セルバさんっ」

 思いがけない人物の声に、彼はぎょっとして振り返った。


 


 

 ※ ※ ※


 

 

「おい、てめぇ何してやがんだ!」

 バッツが良く通る大音量の声で怒鳴りつける。
 戦闘の気配に慌てて駆けつけた彼らに理解できたのは、セルバが何者かに攻撃を加えているということだった。

 多勢に無勢を察したのだろうか。呼びかけた途端、彼ははっとしたように身を翻した。

「セルバさん、待ってくださいっ」

 逃げ出すセルバをとっさに追いかけようとした彼らだが、静かな声が巡礼者たちを引きとめた。

「いいのです。それよりこちらにおいでください」

 ジェムは思わず足を止め振り返った。

 そこにいたのは、不思議な存在感を持つ一人の青年。
 いや、青年だとは限らない。それは妙な人物だった。
 かなり古風な感じの服を身にまとい、地面に届くほど長い髪は淡い翠色。見かけはそれほど老けてないのに、しかし何故かジェムにはこの人が若いようには思えなかった。

「なんか、守り手のばあちゃんに似てるよな」

 バッツがぼそりと呟く。ジェムもそれにうなずいた。
 顔かたちが似ているわけではない。けれど放たれる空気は年輪を重ねた老人のそれに近かった。

 しかし何故この聖域、しかも厳重に結界が張られていたこの空間に人がいるのかが分からない。
 彼は五人の巡礼者たちを見てそっと眉尻を落とした。

「あなた方はセルバの知己なのですね。そしてこの結界に入れたということは、巡礼使節でもある」
「はい……」

 ジェムは素直にうなずいた。彼は丁寧に頭を下げる。

「わたくしはユズリハと申します。ここ、神域の森でグアルディア・ビエハ――《古き番人》を任じられた者です。あなた方をお待ちしておりました」

 巡礼者が何を言うよりも早く、フィオリが素早くユズリハの前に飛び出した。

「ねえ、教えてっ。あなたはセルバをよく知っているのね。あたし、あの人についてどうしても知りたいの」

 突然のその問い掛けにユズリハは驚いたようにかすかに目を見開いた。
 しかし、彼女の懸命な眼差しを受けてゆっくりとうなずく。

「構いません。わたくしもあなた方にひとつお頼みしたいことがあります」
「それはセルバの知人としてか。それとも巡礼者としてか」

 剣呑なゼーヴルムの問い掛けに、ユズリハは困ったように目を伏せた。

「これが道理に外れた頼みだということは承知しています、海の民の方。わたくしの本来の役目は巡礼者としてのあなた方をお待ちすること。しかしこのたびは巡礼者としてではなく、セルバの知人としてのあなた方にお願いしたいのです」

 真に勝手を言ってすみません、と彼は謝罪の言葉を口にした。

「あの、セルバさんはいったい……」

 どうやらユズリハとセルバは知り合いのようだが果たしてそれはどういった関係で、彼が何を望んでいるのかがさっぱり分からない。
 仰ぎ見るようなジェムの視線に、ユズリハは小さく微笑んだ。

「あの子は、わたくしにとって何にも代え難い大切な存在です。……セルバはしばしの間、この森で暮らしておりました」

 ジェムは思わず目を見開いた。

「九年前、森の守り手の子供がこの神域に迷い込みました。なぜ結界を越えられたのかはわたくしにも分かりません。しかしその子は心と身体に深い傷を負っていたのです」

 そう哀しげにユズリハは視線を落とした。


 

 その子どもが己の前に突然現れた時、ユズリハは言葉も出ないほどに驚愕した。
 いくら守護者の血筋とは言っても、封じられたこの地に入れるものではない。ここに入れるものは極々限られているからだ。
 けれどそのことをいぶかしむよりも早く、ユズリハは身も心もボロボロになった彼の姿に胸を痛めた。

 番人として長い間聖域の結界内から出ていなかったユズリハも、当時この大陸でいくつもの戦争がおきていることは知っていた。
 だからこの子供が己の守護すべき森を失ってしまったのであろうことにも、すぐに予想がついた。

 守り手にとって森を失うことは己の身を断ち切られるよりも辛いことだ。そこには年齢など関係がない。それに森を失った守り手にはもうひとつ深刻な問題もある。

 このままではこの子供は死んでしまう。
 ユズリハにはそれがよく分かった。
 そして自分ならば救うことができるという事も、確かめる必要がない位はっきりとしていた。


「わたくしはこの神域で子供を保護することに決めました。ここで心身の傷を癒してあげようと決めたです」
 

 それは本来許されることではなかった。
 この神域の森はその役割から常に不可侵であるべきもの。
 彼自身、あらゆる侵入者から神域を守る存在であるはずだった。
 だがユズリハは自らその禁を破ってしまった。

 それが過ちだとは知りながら、しかしそれでも神域の番人にはその哀れな子供を見捨てることができなったのである。


 

「その選択を後悔している訳ではありません。しかしそれが、わたくしの弱さが生み出した過ちであることにも違いありません」
「でもあの……、誰かを大切に思うことがそんなにいけないんですか」

 人を慈しみ、大事にすることは尊い感情であっても、非難されるべきこととは思えない。
 戸惑うようなジェムの問いにユズリハは悲しげに微笑み、うなずいた。

「《古き番人》にとっては大罪です。グアルディア・ビエハはその役目のためには途方もない孤独にも耐えなければならない。わたくしは確かにそれを覚悟していたはずです。けれども、二千年という年月はその覚悟をわたくしから奪ってしまったようです」
「二千年!?」

 ジェムは思わず目を見張った。

 老成した雰囲気を持つ人だとは思っていたが、まさかそこまで長い年月を生きているなんて想像もできない。
 信じられないと言わんばかりの彼らの様子に、青年は小さく笑って首をかしげた。

「樹人という種族をご存知ですか。もう絶えて久しい種ですが、わたくしはそのひとりです」

 青年の指がすっと地面におちる長い服の裾を持ち上げる。
 ジェムは再び目を剥く事となった。

「そ、そんな――っ」

 ジェムは絶句する。
 裾からのぞいたのは二本の足ではなく、樹木の根だった。

「まさか亜人種!?」
「それも『樹人』だなんて、《失われた種族》の筆頭じゃないか……」

 シエロもゼーヴルムも驚きを隠せない。
 フィオリやバッツにいたっては声も出なかった。

 この世界には人間以外に多くの人型種族が存在する。
 もっともその大半はいつの間にか姿を消し、あるいは限りなくその数を減らしてしまったため彼らと出会うことはほとんど無い。
 中でも樹人という種族はとっくに滅んだとされ、神話の中でのみ知られている存在だった。

 彼らが人と異なるのは、彼らが生き物であると同時に植物でもあるということ。
 生涯放浪を続ける彼らは、己の終の棲家を定めたときその身を一本の樹へと変化させる。彼らは人と樹のふたつの姿を持っているのだ。
 だがその形態変化は完全なものであり、普通ならば彼のように人の身と樹木が混じり合うという話は聞いたことがない。

 ユズリハは内緒話をするように声をひそめて笑った。

「この地が条件に恵まれているということもありますが、このように半樹化していれば樹人は数千年は生きます。もっとも、好んで半樹化する者はほとんどいませんけれどもね」

「は、はあ……」

 ジェムは呆然とうなずいた。

 確かにそれはそうだろう。
 動くこともできず、しかし意識だけはしっかり持って数千年の時を生きる。それはある意味死よりも辛いことだ。

 しかしだったらなぜこの樹人がそのような選択をしたのか、ジェムはそれを不思議に思った。

「セルバはある日、突然この森を出て行きました。きっとここで安穏と生きる自分を許せなかったのでしょう。あの子は九年前からずっと自分を責めていましたから。その後、外界で何をしていたのかは想像するしかありません。しかし、あの子は戻ってきた」
「そう、それはどうしてなんですかっ。なぜ、あなたはセルバさんから攻撃を受けていたんですか!?」

 ジェムはユズリハに詰め寄る。とにかくそれこそが、ジェムたちにはもっとも重要なことだった。
 だがユズリハはそれにはっきりと答えず、静かに森の奥を指差した。

「どうぞあちらにお進みなさい。それはあなた方ご自身の目で確かめられたほうがよろしいでしょう」

 巡礼者たちは判然としないまま、ユズリハの言葉に従った。


 

 ※ ※ ※


 

 

 巡礼者たちの後姿が完全に消えた頃、ひとつの足音がユズリハの耳に届いた。

「お久しぶりです、ユズリハ」

 ユズリハは驚いたように目を見張る。そこにいたのは思いがけない人物だった。
 足音の主は小さく微笑むと、俯くように視線を下げた。

「わたしたちの結果についてはきっと存じているのでしょうね。期待に沿えずに、申し訳ありませんでした」
「そんなことありませんよ、ベルクライエン」

 ユズリハは泣きそうにも笑い出しそうにも見えるなんとも曖昧な表情でスティグマを見る。
 それはユズリハの心からの言葉だった。彼らを信じていなかったわけではない。むしろ彼らならきっと大丈夫だと信じていただけに、これはことのほか残念だった。
 しかし、それは彼らが気に病むことではない。

 ユズリハはふと彼にたずねた。

「他の皆さんは、どうなさいましたか?」
「……彼らは皆、使命を全うしました。わたしだけがこうして、ここで恥をさらしていますよ」

 スティグマの声は自嘲とともに深い悲しみに満ちている。ユズリハはゆっくりと首を振った。

「どうかご自分を責めないで下さい。わたくしは、またあなたにお会いできたことを嬉しく思いますよ」
「ええ、ですがわたしは……」

 そこでぷっつりと言葉は途切れた。
 思い出として語るには、まだ早すぎるのだろう。傷は今も血を流している。

 スティグマは仰ぎ見るように巡礼者の消えた森の奥へと視線を転じた。

「わたしたちの運命は途中で断ち切れた。ユズリハ、あの子達は無事に、最後まで行き着けるでしょうか」

 それは問い掛けよりも、祈りの言葉に近い。
 ユズリハも同じようにそちらに目を向けた。

 何を言おうにも、それはまだ不鮮明すぎた。