第三章 エピローグ 潮騒と港(1)

 


 ユズリハの指し示した方向に進むにつれて、周囲に木々の数は減り見晴らしは良くなっていく。
 しかし一方で森の気配はますます濃厚になっていた。
 視覚と感覚の相違を不思議に思い、ジェムは戸惑うように首をかしげる。

「なんだか、もっと深い森の中にいるような気分がします」
「つうか火霊がまったくいねぇぞ」

 本来ならば常に自分の傍にいるはずの精霊の姿がないのが不安なのか、そわそわと落ち着かない様子のバッツが顔をしかめて呟いた。

「それはここが樹の元素(エレメント)に満ちているからだろうね」
「樹のエレメント?」

 こともなげに言うシエロの言葉にジェムは目を見張る。

「世界を構成する五つの元素のうちの一つよ」

 フィオリが彼の言葉を継いで説明した。

 世界は五大神に対応する五つの元素から成り立っており、精霊魔法などの術も本来はこの力を操作することで効果を発揮する。
 中でも樹のエレメントは調和を基とし治癒に長けた力である。

「もっとも樹の元素は畑や森みたいに緑の気配が濃厚な場所に多くてね、地や風のそれのように場所を問わず満ちているものじゃないから肌で感じるほどっていうのは珍しいね」
「それがどうして火霊が少ないことに繋がるんだ?」
「そりゃ相性が悪いからさ。木気は火気を嫌うからね、さすがにこれほど木気が満ちてれば火霊も居心地が悪いだろうよ」
「なんか裸になったようで落ちつかねぇ……」

 だが火霊に愛されたバッツを抜かせば、ここは非常に居心地のいい空間だった。
 まるで身体の芯からほぐされていくような気がする。

「樹の元素の癒しの効果だ。ゼーヴルムの身体に残った毒もこれで全部抜けるだろうね」
「そうだな。だいぶ身が軽い」

 ゼーヴルムも重々しくうなずいた。
 これだけ濃厚なエレメントの中にいれば大抵の病は裸足で逃げ出すだろう。

「つうかユズリハが見せたい物って何なんだ」

 ひとり調子の悪いバッツが大儀そうに呟く。
 だがそれはさして間を置かず見つけることができた。

 むしろ。

 それは、否応なく彼らの目に飛び込んだ。

 
 


 

 ※ ※ ※


 

 
 

 目に飛び込んできたそれを、彼らはすぐには理解できなかった。

「すごい……」  

 ジェムは呆然と呟いた。

 驚くほどの巨樹で息を呑むほどの美しさだった。
 周囲にはまるで遠慮するかのように一本の木さえ生えていない。

 
 それはまさしく森の王だった。
 

 大理石のように繊細な色合いの幹と、緑の宝石を散りばめたように煌めく葉。
 堂々と大地に根を張り空に向かって高く高く伸び上がっている。

 世界中のどこを探したってこれほど美しい樹を見ることはできないだろう。
 一目見てそれが分かった。

 シエロも、ゼーヴルムも、バッツも、フィオリも。

 誰もが圧倒され、言葉なくそこに立ち尽くしている。
 それがとんでもないもの≠セというのが感覚として理解できた。
 皆息を呑むばかりで他に言葉がない。

 だが、一方でそこに満ちていたのは死にも似た完全な静寂だった。
 生き物の気配どころか風にさんざめく梢の音さえ聞こえない。
 圧倒されるような気配に反して、凍りついたような静けさだけがなんとも言えずに不気味だった。

 
 呆然と大樹を見上げていたジェムは、ふいにそこに《ヒト》の姿があることに気付いた。
 それは生身の人間ではない。幹から上半身だけを浮かび上がらせたその姿を、ジェムは最初、樹の幹に彫られたレリーフだと思った。

(これは、誰だろう……)

 その姿はあまりにも神秘的で、美しい。
 ジェムは誘われるように、無意識に手を伸ばし――、

「みだりにお手を触れないように」

 一羽の翡翠色の鳥が羽音を響かせジェムの肩に止まった。

「えっ、まさかユズリハさん!?」

 はっとしたジェムは、聞き覚えのある声にビックリして首をひねる。

「ご名答です」

 小さな鳥は差し出されたジェムの指にちょこんと移動すると小首をかしげた。

「この神域の中でしたら、わたくしは他の生き物の身体を借りることができます。《古き番人》に与えられた特権ですね」

 ユズリハの言葉はどこか得意げな響きを持っている。

「ユズリハさん。あの人はいったい誰なんですか……?」

 ジェムはおずおずと美しい樹に埋もれたヒトを指差した。

 もともとがひとつのものであったかのように、完全に樹の幹と一体化した姿に血の気はない。その質感は樹の幹と同一のものだ。
 しかし作り物と判じるには、それはあまりにも精巧すぎた。肌のきめ、睫毛の一本一本に至るまではっきりと識別できる。

 それは明らかに生き物だった。

 どこか哀しみを湛えた表情で、大樹と同じくらい美しいそのヒトは、静かに目を閉じている。

 ユズリハはすぐにはその問いに答えなかった。
 潤んだような眼差しで樹を見つめていた番人は、おもむろに美しい声音で神話の一節を吟じた。


『――三柱神は世界を美しく彩り、なおかつ恵みに満たすため存在を造られた。
 それは大地に根を張り、身の内に水をめぐらせ、常に空を目指し育つもの。
 そうして生まれたのが樹神ユークレースであり、この時から世界に緑が生い茂るようになった……

 

 古き番人は巡礼者たちをまっすぐに見て、厳かに命じる。

「お控えなさい。この方こそが、五大神のおひとり。世界の森そのものであり、あまねく緑の王たる樹神ユークレース様であらせられます」

 巡礼者たちは思わず目を見張った。

「じ、樹神……ユークレース――っ!?」
「そんな、神様だなんて……まさかっ」

 ユズリハを疑う訳ではない。しかしバッツもフィオリもとっさに否定の言葉を口にする。
 それはすぐには信じられない言葉だった。
 ジェムもただ唖然として樹木を見上げる。

 確かにこの樹が尋常ではないと言うことは理解できるが、突然神様だと言われても困る。
 神とは実在と虚構のどちらにしても、自分とは掛け離れた次元に属する存在だと認識していたからだ。

 だが一方で嘘だろうと声高に批難することもできなかった。
 それだけの空気がこの樹、そしてヒトの姿には確かにあったのだ。

 何とも言えない気持ちで顔を見合わせる巡礼者たちの前で、翡翠の鳥は小さく鳴いて頭を下げた。

「信じられないというお気持ちは分かります。ですがこのお方がユークレース様であることはまぎれもない事実なのです」
「で、でも神様だとしたら、この姿はいったい何なんですか!?」

 ジェムはわなわなと身を震わせ大樹を指し示す。

 あまりにも静かなこの神域。
 生きる者の気配のない神の姿。

「これじゃあ、まるで死んでいるような――、」
「いいえっ」

 ユズリハは突然身悶えするかのように激しく首を振った。

「いいえ、いいえっ。この方は身罷られてはおりません。この方は生きております」
「では、いったい……?」

 番人は声高に否定するが、ゼーヴルムも不安げな様子でユズリハを見る。
 翡翠の小鳥はがっくりと肩を落とした。

「……ユークレース様は、長き眠りについておられるのです」
「眠りだって?」
「はい。神域とは神の眠りを守る地。《古き番人》とは神の目覚めを待つ者のことなのです」

 ユズリハはそっと樹神を見上げる。その姿はなんだかひどく痛々しい。
 だが一方でバッツが、我慢できないとばかりに頭を抱えた。

「ちょっと待てっ。樹神は眠りについてるって、それっていったい何なんだよっ。まさか他の神も――!?」
「それは……」

 言い辛そうにユズリハが口ごもる。

「そのことは、二千年前に起きた何かと関係があるの?」

 ぎょっとしたような視線がシエロに集まった。
 ユズリハも途端に警戒するような眼差しをシエロに向ける。

「……あなたはいったい、何をご存知なのですか」
「残念ながら何も知らないよ。これは単なる推測に過ぎない」

 淡々とシエロは答え、樹神を見上げた。
 まるで感情を排してしまったかのように、その顔は何の表情も浮かんでいない。

「でも二千年前を境に世界の様子ががらっと変化したのは確かだ。特にその時から神に関する伝承がぷっつり途絶えている。まるでそれ以降神が世界から消えてしまったみたいに」

 それにあなたが番人となったのも二千年前からだよね。と、独り言のように呟く。
 この言葉にジェムもはっと気付いた。

 八年に一度の巡礼使節。
 自分たちはその二五〇代目の代表者だ。
 それが意味することは、すなわち――。

「二千年前、それが全ての鍵となっているんじゃないかな」

 ユズリハは呆然とした顔でシエロを見る。

「あなたは、いったい……?」

 シエロはまったくの無表情のままユズリハをちらりと見て言った。

「黒い鳥をご存知ですか? 碧い鳥籠に住む、片翼の鳥を」

 ユズリハははっと息を呑む。そしてようやく合点がいったとばかりに小さくうなずいてみせた。

 一方訳の分からないジェムは問いかけるようにシエロに視線を向けたが、彼は気付かずただ憑かれた様に眠れる樹神を見つめている。
 仕方なくジェムは改めてユズリハを見た。

「ユズリハさん、教えてください。二千年前に、いったい何があったと言うのですか」
「――残念ながら、それはわたくしの口からお答えすることは出来ません」
「なんだよ、それはっ」

 すげない返事の番人にバッツがかっとして詰め寄る。
 だがユズリハはただ哀しげに頭を下げていた。

「真実を知りたいと望むのならば、それはあなた方自身の手で見つけ出さなければなりません。これは定められた決まりであり、わたくしではありのままお伝えすることができないのもまた、事実です」

 悲痛な思いをあらわにしたその言葉に、巡礼者は何も言えなくなる。
 ユズリハはちらりとジェムを見た。

「地の民の方、真実を知ることはきっとあなたにはより辛いものになるでしょう。でもどうか覚えていてください。地神アデュレリアさまは確かにあなた方を愛しておりました」

 その視線、その言葉になぜだかジェムの胸はどきりと高鳴る。
 アデュレリア――それはノルズリ大陸の主神たる、大地の神の名前だ。
 不安や怯えが綯い交ぜになった何とも言えない感情が、じわりと胸から滲み出てくる。

「あの、それはいったい……っ?」

 しかしユズリハはそれ以上は何も述べず、呆然とする巡礼者たちを改めて見て言った。

「どうか巡礼を成し遂げてください。これが《古き番人》としてのわたくしの願いです。そして世界の真実を知ってください。世界の愛し児たるあなた方ならば、きっとそれができるはずです」

 ユズリハは誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。

「わたくしたちの身勝手につき合わせてしまい、申し訳ありません」

 


 

 ※ ※ ※  


 


 

 神域を出るとそこにはスティグマの姿はなかった。

「あれ、待っててと言ったのに……。どこに行っちゃったんだろう」

 フィオリがきょろきょろと周囲を見回す。
 だがその時、彼らの頭上から声が降ってきた。

「ねぇ、神を見た?」

 ぎょっとして顔を上げる。樹上に立っていたのは思ったとおりセルバの姿だった。

「セルバさんっ」
「美しい姿だったでしょう。セルバもね、昔あの神を見たんだよ。氷の彫像のように、美しく冷たい姿を」

 ふっとセルバは笑う。だが血のように赤い左目を露わにしたその姿には、かつての無邪気さはうかがえなかった。

「セルバさん、あなたはすぐに神域に戻らなくっちゃ駄目ですっ。さもないとあなたは――っ」

 ジェムは青ざめた顔でセルバに呼びかけた。

 神と引き合わせた後、ユズリハは改めて頼みの内容を彼らに告げた。

 それはセルバに再び神域へ戻るよう説得すること。
 悲しげな顔でユズリハは宣告した。

 このままではセルバは長く生きられない。
 もってあと一、二年。どうあがいても成人まで生きられないだろう、と。

「知ってるよ」

 セルバはあっさりと答えた。

「セルバは森を守れなかった。だから制裁を受けたんだ。この髪も、左目も呪われた者の印だよ。昔はもっと、違う色だった」

 セルバは懐かしむように色彩を失った己の髪を摘み上げる。


 森を守れなかった守護者への罰。
 それは死にゆく木霊からの全霊を込めた恨み。
 徐々にその身を腐らせ、死に至らしめる呪いだ。
 

「でもユズリハさんは言ってました! 神域の中だったら呪いの進行を止めることができるってっ。だから――っ」

「この身など、いかに腐り果てようとも構いはしない。願いを叶えられるならば、僕は何度だって死んで見せるよ」

 セルバはにっこりと微笑んだままジェムに答える。
 その目には怖れも迷いもなく、ジェムはすっと背筋が冷たくなるのを感じた。

「セルバさん……。あなたは、いったい何をしようというんですか」

「神殺し」

 躊躇なく返された言葉に誰もが思わず息を呑む。

「樹神を滅するのはしくじったけど、他にも神はいるからね。ユークレースは後に回すことにするよ」

 セルバは笑って首をかしげた。

「できれば巡礼も止めて欲しいけど、君たちはそんなの聞かないよね」
「当然だろうっ」

 バッツがかっとなって怒鳴り返す。

「うん。だからセルバはセルバの道を行くよ。どうか邪魔はしないで欲しいな」

 セルバは小さく微笑みその場を後にしようとする。
 だがそこに間髪を入れずフィオリが叫んだ。

「ねえ、待ってっ。あたしあなたを知っているような気がするの!」

 そう言ってセルバのもとに走り寄る。

 当時のことは辛い記憶だからと、なるべく思い出さないようにしていた。
 そうじゃなくとも九年という歳月のうちに記憶は徐々に薄れ、霞んでいった。
 だけども村のオババ様と話してから、何故だかやけに記憶の奥がざわついた。
 だから我慢できずに追いかけた。
 そしてユズリハの話を聞いてさらに疑いは強くなった。

 とっくにあきらめ、そして忘れてしまっていたこと。

「答えてっ。もしやあなたはあの村の……、ううんっ。あなたはあたしの――っ」

 セルバはゆっくりと動きを止めた。
 ぎこちない動きで振り返ったその表情を、ジェムはいつまでも忘れることができなかった。
 喜びと悲しみの双方に歪んだ顔。その時の彼は確かに、ジェムたちと共にいたセルバだった。

「――僕のことなんて忘れてしまった方がいい。それでも僕は、君だけは絶対に守るから……トゥーラ」

 フィオリ――、フィオリトゥーラは大きく目を見開いた。
 セルバはあらためて巡礼者たちをまっすぐに見て言った。

「騙されるな。奴らは皆、神という名の化け物だ」

 そして素早く身を翻すと、彼の姿は森の奥へと消えていく。

「待って、――――おにいちゃん……っ!」

 ただフィオリの悲痛な叫びだけが、森閑の中にこだました。