ユズリハの指し示した方向に進むにつれて、周囲に木々の数は減り見晴らしは良くなっていく。
「なんだか、もっと深い森の中にいるような気分がします」
本来ならば常に自分の傍にいるはずの精霊の姿がないのが不安なのか、そわそわと落ち着かない様子のバッツが顔をしかめて呟いた。 「それはここが樹の元素(エレメント)に満ちているからだろうね」
こともなげに言うシエロの言葉にジェムは目を見張る。 「世界を構成する五つの元素のうちの一つよ」 フィオリが彼の言葉を継いで説明した。 世界は五大神に対応する五つの元素から成り立っており、精霊魔法などの術も本来はこの力を操作することで効果を発揮する。
「もっとも樹の元素は畑や森みたいに緑の気配が濃厚な場所に多くてね、地や風のそれのように場所を問わず満ちているものじゃないから肌で感じるほどっていうのは珍しいね」
だが火霊に愛されたバッツを抜かせば、ここは非常に居心地のいい空間だった。
「樹の元素の癒しの効果だ。ゼーヴルムの身体に残った毒もこれで全部抜けるだろうね」
ゼーヴルムも重々しくうなずいた。
「つうかユズリハが見せたい物って何なんだ」 ひとり調子の悪いバッツが大儀そうに呟く。
むしろ。 それは、否応なく彼らの目に飛び込んだ。
※ ※ ※
目に飛び込んできたそれを、彼らはすぐには理解できなかった。 「すごい……」 ジェムは呆然と呟いた。 驚くほどの巨樹で息を呑むほどの美しさだった。
大理石のように繊細な色合いの幹と、緑の宝石を散りばめたように煌めく葉。
世界中のどこを探したってこれほど美しい樹を見ることはできないだろう。
シエロも、ゼーヴルムも、バッツも、フィオリも。 誰もが圧倒され、言葉なくそこに立ち尽くしている。
だが、一方でそこに満ちていたのは死にも似た完全な静寂だった。
(これは、誰だろう……) その姿はあまりにも神秘的で、美しい。
「みだりにお手を触れないように」 一羽の翡翠色の鳥が羽音を響かせジェムの肩に止まった。 「えっ、まさかユズリハさん!?」 はっとしたジェムは、聞き覚えのある声にビックリして首をひねる。 「ご名答です」 小さな鳥は差し出されたジェムの指にちょこんと移動すると小首をかしげた。 「この神域の中でしたら、わたくしは他の生き物の身体を借りることができます。《古き番人》に与えられた特権ですね」 ユズリハの言葉はどこか得意げな響きを持っている。 「ユズリハさん。あの人はいったい誰なんですか……?」 ジェムはおずおずと美しい樹に埋もれたヒトを指差した。 もともとがひとつのものであったかのように、完全に樹の幹と一体化した姿に血の気はない。その質感は樹の幹と同一のものだ。
それは明らかに生き物だった。 どこか哀しみを湛えた表情で、大樹と同じくらい美しいそのヒトは、静かに目を閉じている。 ユズリハはすぐにはその問いに答えなかった。
古き番人は巡礼者たちをまっすぐに見て、厳かに命じる。 「お控えなさい。この方こそが、五大神のおひとり。世界の森そのものであり、あまねく緑の王たる樹神ユークレース様であらせられます」 巡礼者たちは思わず目を見張った。 「じ、樹神……ユークレース――っ!?」
ユズリハを疑う訳ではない。しかしバッツもフィオリもとっさに否定の言葉を口にする。
確かにこの樹が尋常ではないと言うことは理解できるが、突然神様だと言われても困る。
だが一方で嘘だろうと声高に批難することもできなかった。
「信じられないというお気持ちは分かります。ですがこのお方がユークレース様であることはまぎれもない事実なのです」
ジェムはわなわなと身を震わせ大樹を指し示す。 あまりにも静かなこの神域。
「これじゃあ、まるで死んでいるような――、」
ユズリハは突然身悶えするかのように激しく首を振った。 「いいえ、いいえっ。この方は身罷られてはおりません。この方は生きております」
番人は声高に否定するが、ゼーヴルムも不安げな様子でユズリハを見る。
「……ユークレース様は、長き眠りについておられるのです」
ユズリハはそっと樹神を見上げる。その姿はなんだかひどく痛々しい。
「ちょっと待てっ。樹神は眠りについてるって、それっていったい何なんだよっ。まさか他の神も――!?」
言い辛そうにユズリハが口ごもる。 「そのことは、二千年前に起きた何かと関係があるの?」 ぎょっとしたような視線がシエロに集まった。
「……あなたはいったい、何をご存知なのですか」
淡々とシエロは答え、樹神を見上げた。
「でも二千年前を境に世界の様子ががらっと変化したのは確かだ。特にその時から神に関する伝承がぷっつり途絶えている。まるでそれ以降神が世界から消えてしまったみたいに」 それにあなたが番人となったのも二千年前からだよね。と、独り言のように呟く。
八年に一度の巡礼使節。
「二千年前、それが全ての鍵となっているんじゃないかな」 ユズリハは呆然とした顔でシエロを見る。 「あなたは、いったい……?」 シエロはまったくの無表情のままユズリハをちらりと見て言った。 「黒い鳥をご存知ですか? 碧い鳥籠に住む、片翼の鳥を」 ユズリハははっと息を呑む。そしてようやく合点がいったとばかりに小さくうなずいてみせた。 一方訳の分からないジェムは問いかけるようにシエロに視線を向けたが、彼は気付かずただ憑かれた様に眠れる樹神を見つめている。
「ユズリハさん、教えてください。二千年前に、いったい何があったと言うのですか」
すげない返事の番人にバッツがかっとして詰め寄る。
「真実を知りたいと望むのならば、それはあなた方自身の手で見つけ出さなければなりません。これは定められた決まりであり、わたくしではありのままお伝えすることができないのもまた、事実です」 悲痛な思いをあらわにしたその言葉に、巡礼者は何も言えなくなる。
「地の民の方、真実を知ることはきっとあなたにはより辛いものになるでしょう。でもどうか覚えていてください。地神アデュレリアさまは確かにあなた方を愛しておりました」 その視線、その言葉になぜだかジェムの胸はどきりと高鳴る。
「あの、それはいったい……っ?」 しかしユズリハはそれ以上は何も述べず、呆然とする巡礼者たちを改めて見て言った。 「どうか巡礼を成し遂げてください。これが《古き番人》としてのわたくしの願いです。そして世界の真実を知ってください。世界の愛し児たるあなた方ならば、きっとそれができるはずです」 ユズリハは誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。 「わたくしたちの身勝手につき合わせてしまい、申し訳ありません」
※ ※ ※
神域を出るとそこにはスティグマの姿はなかった。 「あれ、待っててと言ったのに……。どこに行っちゃったんだろう」 フィオリがきょろきょろと周囲を見回す。
「ねぇ、神を見た?」 ぎょっとして顔を上げる。樹上に立っていたのは思ったとおりセルバの姿だった。 「セルバさんっ」
ふっとセルバは笑う。だが血のように赤い左目を露わにしたその姿には、かつての無邪気さはうかがえなかった。 「セルバさん、あなたはすぐに神域に戻らなくっちゃ駄目ですっ。さもないとあなたは――っ」 ジェムは青ざめた顔でセルバに呼びかけた。 神と引き合わせた後、ユズリハは改めて頼みの内容を彼らに告げた。 それはセルバに再び神域へ戻るよう説得すること。
このままではセルバは長く生きられない。
「知ってるよ」 セルバはあっさりと答えた。 「セルバは森を守れなかった。だから制裁を受けたんだ。この髪も、左目も呪われた者の印だよ。昔はもっと、違う色だった」 セルバは懐かしむように色彩を失った己の髪を摘み上げる。
「でもユズリハさんは言ってました! 神域の中だったら呪いの進行を止めることができるってっ。だから――っ」 「この身など、いかに腐り果てようとも構いはしない。願いを叶えられるならば、僕は何度だって死んで見せるよ」 セルバはにっこりと微笑んだままジェムに答える。
「セルバさん……。あなたは、いったい何をしようというんですか」 「神殺し」 躊躇なく返された言葉に誰もが思わず息を呑む。 「樹神を滅するのはしくじったけど、他にも神はいるからね。ユークレースは後に回すことにするよ」 セルバは笑って首をかしげた。 「できれば巡礼も止めて欲しいけど、君たちはそんなの聞かないよね」
バッツがかっとなって怒鳴り返す。 「うん。だからセルバはセルバの道を行くよ。どうか邪魔はしないで欲しいな」 セルバは小さく微笑みその場を後にしようとする。
「ねえ、待ってっ。あたしあなたを知っているような気がするの!」 そう言ってセルバのもとに走り寄る。 当時のことは辛い記憶だからと、なるべく思い出さないようにしていた。
とっくにあきらめ、そして忘れてしまっていたこと。 「答えてっ。もしやあなたはあの村の……、ううんっ。あなたはあたしの――っ」 セルバはゆっくりと動きを止めた。
「――僕のことなんて忘れてしまった方がいい。それでも僕は、君だけは絶対に守るから……トゥーラ」 フィオリ――、フィオリトゥーラは大きく目を見開いた。
「騙されるな。奴らは皆、神という名の化け物だ」 そして素早く身を翻すと、彼の姿は森の奥へと消えていく。 「待って、――――おにいちゃん……っ!」 ただフィオリの悲痛な叫びだけが、森閑の中にこだました。
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