第三章 エピローグ 潮騒と港(2)

 


 巡礼者たちが樹大神殿に戻ったのは予定していた一ヶ月をやや過ぎた頃だった。

 さすがに喪儀も終わったらしく、ひらひらと街を彩っていた五色の旗はすべて降ろされている。だがそれでもにぎやかな街の空気はなにひとつ変わっていなかった。

 大神殿に向かった彼らを迎えたのは、以前神殿の事情を教えてくれたあの人好きのする司祭だった。

「長らくお待たせして申し訳ありませんでしたね」

 彼は白髪の混じった黄みの強い茶髪をかきあげにこにこと笑いながら、時には軽口も取り混ぜて巡礼者たちを本殿へと案内する。

「あの、次の大神官様は決まったのでしょうか」

 ジェムはおずおずと戸惑った様子で司祭にたずねた。
 振り返ってみればここまでたどり着くのにかなり色々な出来事があった。それはどれも神殿のせいでは無いけれど、これでもしまた前回の繰り返しになろうものなら、たぶん彼らは座り込んだままその場から一歩も動けなくなるだろう。

「ええ、もちろんですよ」

 だけど一方の司祭は巡礼者たちのそんな疲労に気付いているのかいないのか、相変わらずむやみやたらとご機嫌な様子で彼らを礼拝堂へと導いた。

 通された聖堂はがらんとしている。
 たぶん自分たちのためにあらかじめ人払いをしてくれたのだろう。
 造りは以前訪れた始まりの神殿と同じであり、向こうでは巡礼の証が置かれていた台座には一振りの枝が置かれていた。

「あ、あれ……っ」

 バッツが思わずといったように、それを指差す。司祭は小さく苦笑した。

「単なる棒切れに見えるでしょうが、あれが当神殿の御神体です。あの枝はユークレース様からじきじきに授けられたものであると伝えられているんですよ」

 司祭の説明を耳にしつつ、ジェムはその枝に思わず見入っていた。

 緑玉をあしらったような鮮やかさに、大理石を思わせる白く佳麗な色彩。
 それは神域で見た神樹と同一のものだった。

「この枝葉はこの地に樹大神殿が建てられた時から一度として枯れたことがないのです。不思議でしょう」

 司祭の言葉にジェムは小さくうなずいた。
 たぶんこれは神意の表れ。かの存在が我々人間を気にかけていてくれていることの証だ。
 だけれど果たして現在、眠りにつく神に人々の祈りは届いているのだろうか。

 ――神無き世界。

 ふと脳裏に浮かんだ考えをジェムは慌てて振り払う。だがそれでも身の内に湧き上がった嫌な感覚は消えなかった。

「ところで、大神官殿はまだいらしていないのか」

 訝しげに眉をひそめたゼーヴルムが周囲を見回し司祭に尋ねる。
 広々とした聖堂は無人で、大神官らしき人物どころか自分たち以外の人の姿はまるで見えない。
 しかし司祭はすました表情でちょこんと首をかしげた。

「いいえ、ちゃんとおりますよ」
「だがここには他に誰も……」

 ゼーヴルムは憮然と呟き、それからはっとして司祭を見た。
 司祭は悪戯めかした表情で胸に手を当てる。

「ご紹介が遅れましたね。わたしが樹大神殿の新たな大神官、アルシェ・エヴァグリーンです」
「あ、あなたがっ!?」
「ええ、わたしがです」

 驚きに目を丸くする巡礼者たちにアルシェはにこりと微笑みかけた。

「樹神殿史上最年少の大神官となります。まぁ、ようするに若輩者のぶんざいでと言うことですが」

 そしてとぼけたように肩をすくめた。

 ジェムは呆けたように彼を見る。
 たぶんスティグマと同年齢くらいの青年だ。世界五大神殿のひとつ、樹大神殿の最高権力者となるには確かに若すぎると言っていいだろう。

 だが若き大神官はなんの怖れも驕りもなく、堂々と彼らの前に立っている。そこには樹大神殿を預かる者としての、確かな自信が見て取れた。

「それはそれはおめでとうございます」
「これはこれはご丁寧に」

 太鼓持ちのように恭しく差し出されたシエロの手を、アルシェは苦笑して握り返す。

「もっとも、これから学ばなければならないことの方がよっぽど多いのですけどね。この所ちょっと考えを改めさせられまして」

 独白混じりにそう答え、大神官は彼らを見ておもむろに首をかしげる。

「それはそうと、先日はいらっしゃらなかったそちらのお嬢さんはどなたでしょうか」
「あたしは……」

 巡礼者たちの間から一歩前に出て来た少女は大神官の前ではっきりと言った。

「森の薬師で狩人のフィオリトゥーラと言います。二百五十代目の巡礼の旅に特別参加させて頂きたいと思ってやってきました」

 フィオリは深々と頭を下げた。

「あたしが巡礼についていくことを許可して下さい」
 
 

  ※  ※  ※


 

 村に戻ったあと森の守護者の嫗にフィオリは言った。

「あたしも巡礼者たちと一緒に行きます」

 そしてジェムたちに向かって頭を下げた。

「あたしも巡礼に連れてって。お願い」
「フィオリ」

 スティグマが慌てたようにフィオリの肩を掴む。だがフィオリは己の保護者を見て小さく首を振った。

「ごめんね、スティグマ。あたしもう決めたの」
「それは、セルバのことが理由?」

 静かに微笑んでたずねるシエロに無言でうなずく。

「結局セルバはおまえの何だって言うんだよ」

 きつい口調のバッツにフィオリはしばし躊躇うように口を閉ざし、おもむろに答えた。

「セルバはあたしの――従兄、なんだと思う」
「思うって」
「彼はだいぶ変わってしまったから、……ううん。違うわね。あたしが覚えていないだけ。忘れてしまったの」

 フィオリは自嘲気味に首を振った。

 幼い頃の幸せだった思い出の中に、おぼろげに浮かぶ姿。
 いつだってその後ろをついて回った。
 甘えて駄々をこねる自分を優しく宥める声。
 優しくて、賢くて、誰よりも大人びていた少年。
 いつも隣に居てくれた人。大切だったはずの人。

 だけどそれはひどく曖昧な記憶で。
 きっとここに来なければ忘れたことすら忘れていた。


「でも彼はそれでもあたしの事を忘れないでいてくれた」

 トゥーラと自分を呼ぶ声が今も彼女の中に残っている。
 それは古いものと新しいもの。
 幼い子供の声と、若者の声。
 『守る』と告げた二度の約束。

 自分はその気持ちに応えなければならないのだ。

「あたしは彼と話をしたい。色んな話を。それに、どうして神殺しなんて事をしたいのかも聞かなきゃいけない」

 フィオリの瞳には迷いは無かった。彼女は真っ直ぐな眼差しで前を見据える。
 もし彼が罪を犯そうとしているのならば、自分がそれを止めなければならない。それが血の繋がりを持つただひとりの従兄に対する責任だ。

「たぶんあなたたちに着いて行けば、もう一度セルバに会えるはずだわ」

 セルバは彼らに自分の邪魔をするなと言った。
 それは再び彼に会う機会があるということ。

 巡礼者たちは神殿を巡り、セルバは神域を目指す。
 その目的地は必ずしも重なっていないが、まったくの無関係という訳ではないのだろう。

 ジェムもそれにうなずいた。

「はい、ぼくもそう思います」

 いや、むしろそうであってほしいのだ。
 そしてセルバに会って告げたい。

 実際彼が、250代目の巡礼者となるはずだったことは偽りではない。
 守るといってくれてとても嬉しかった。
 だから自分は君を信じていると。

 例え彼が何を望んでいたとしても、その思いだけは紛れも無い真実なのだから。

 フィオリはもう一度巡礼者たちを見て言った。
 だから自分を一緒に連れて行ってくれ、と。

「そのためだったらあたしは――――、」


 

  ※  ※  ※


 

 湖のそばの村で言ったのと同じ台詞を言い頭を下げたフィオリを見て、大神官はもう一度首をかしげた。

「それは、あなたがアウストリ大陸の代表として巡礼者になる、ということですか」
「たぶん、そういうことになるんだと思います……」

 フィオリがおずおずと答える。

 森の守護者の嫗はとりあえず問題ないだろうと言っていた。
 セルバの代わりとするならば、今のところ一番相応しいのがフィオリだろう。実際これまで女性の巡礼者がまったくいなかったわけではない。
 だったらあとは巡礼者たちの判断に任せると。

「で、当の巡礼者たちはというと」
「大神官が良いと言ったなら、と答えた」

 憮然とした顔でゼーヴルムが応じた。
 たぶんさすがに彼もここにきて反対したい訳ではない。ただ性格上、許可なく重大な決定を下すことに多大な抵抗を感じるのだろう。
 アルシェはそんな彼をふむふむと見てうなずいた。

「まぁ、いいんじゃないですか」
「うわ、あっさりと答えた!」

 ジェムが思わず声を張り上げる。
 大神官は飄々と肩をすくめた。

「残念ながら、わたしも先代から何の引継ぎもなく大神官になったので正確なことは何も言えないんですよ。でも、守り手の方が良しと言ったのならそれでいいんだと思います」
「え、大神官様はブルーメさんをご存知なんですか?」
「いいえ。ですがわたしはこれでも地方回りが長かったですからね、守り手が信頼に値する人々だということを知っています。そうですね、わたしも今後の参考のためにその守り手のご婦人にお話を聞きに伺ってもいいかもしれませんね」

 アルシェはそう言って微笑んだ。そしてふいに真面目な顔付きで深々と頭を下げる。

「この度はこちらの不手際の所為で何の助言もできずに申し訳ありません。ですが、樹神殿はあなた方の無事を祈り、支援することを約束しますよ」

 この樹大神殿の大神官として、とアルシェは力強く請け負った。

「よろしくお願いします」

 礼儀正しく頭を下げる巡礼者たちに彼はにっこりと微笑む。

「はい、確かに。……いやしかしそう言って頂いて助かりますよ。こんな大神官じゃ話にならないとか言われたら、どうしようかと思っていました」

 そう言って少々大げさな仕種で胸を撫ぜ下ろす。傍目には何の迷いも内容に堂々としている彼であっても、なったばかりの大神官という役割にまだ不安な部分が多くあるのだろう。

「そうそう、そう言えばジェムさん」

 ふいにアルシェはジェムに苦笑交じりの視線を向ける。

「実はあなたにひとつ伝言を預かっています」
「え、ぼくにですか?」

 突然自分ひとりに矛先を向けられ、ジェムは思わず目を見開いた。
 そしておもむろに伝えられたその言付けの内容を聞いて、彼はさらに驚くこととなる。