第三章 プロローグ「鳥の歌」(2)

 


 所属していた第六一八期の七師団を担当していた老師は、『私』を指してこう言った。

「これは精神の有様に問題がある」

 呆然と立ち尽くす『私』の前で、上位の管理者たちが集まりなにやら相談をはじめた。

「これは欠陥品である」
「このままでは完成品として世に出すことができない」
「しかし技量は他より抜きん出ている」
「処分してしまうには惜しい」
「だがこのままでは役に立たない」
「ならば、」

 びくりと身体が震えた。

 管理者の一人が足音も立てずに近寄ってくる。
 掌が頭部に添えられた。

 これは恐怖だと、誰に教わるでもなく『私』はそれを知っていた。

 このままでは取り返しのつかないことになる。
 それが分かっていてなお、『私』には逃げるという選択肢は存在していなかった。

 それは、始めから不可能だった。

 上から響いてくるあまりにも冷たい声。

「採るべき処理はただひとつ」

 とたん、『私』の視界は真っ黒になった。

 薄れ行く意識の中で、侮蔑を含んだ言葉だけが最後まで残った。

「これは、まるで己を人間のように思っているな」

 その日より、『私』の中から『私』は消えた。  







 優しい声で鳥が歌った。

 真っ白な光が自分めがけて一直線に降り注いでくる。

 心臓は何か前衛的な音楽のように喧しく鳴り響き、耳に他の情報が入るのをがむしゃらに拒んでいるようだった。呼吸は荒く弾んで息をするのも苦しい。

 でも、それはけして嫌な感覚ではなかった。
 ジェムは小走りに一行を追い越すと、彼らに向かって大きく手を振った。

「みなさーんっ、ヴィリディスの街が見えてきましたよ!」
「なーんつうか、すげぇ元気が有り余ってる、って感じだよなぁ」

 その無邪気な様子にバッツが呆れたように笑っている。しかしそういう彼もまた声は上ずり、目はきらきら輝いて、ようやく目的地にたどり着く興奮を隠し切れないでいた。

 アウストリ大陸に入ってからすでに一ヶ月近く。

 ここに来るまでの長い道のりを思えば、歓喜のあまり浮き足立つのも無理は無い。

「まあいいんじゃないの? ジェムも過去のあれこれから開放されて、ようやく得た自由を満喫しているんだから」

 子供らしい二人の反応をニヤニヤと見ながら、シエロは自分だけは余裕たっぷりの素振りで肩をすくめてみせる。そして背後を肩越しにちらりと振り返った。

「んでもって、対照的に疲労困憊なのがフィオリちゃんっと」
「しょうがないじゃないっ。だって有り得ないものっ。何なのあなたたちは! 何か樹神さまのご不興を買うようなマネしたんじゃないでしょうね!」

 口は申し分なく元気な様子だが、実際は歩くのも精一杯と言わんばかりにスティグマの腕にすがりついていた。

「あたしもう腕パンパンよ。矢の一本だって引けはしないわっ。いったい、どうやったら、ここまで大量の魔物と遭遇できるのよおっ」

 泣きそうな顔で声を張り上げる彼女を支えながら、スティグマもうなずいた。

「まあ一応、話に聞いてはいたんだけどね。まさかここまでのものとは思わなかったよ」

 困ったように苦笑しているものの、その声は疲れからか少々虚ろである。

  ジェムを連れ戻そうとした刺客を退け、巡礼の旅を再開した彼らはほぼ毎日、多いときにいたっては日に二回も魔物の襲撃を受けていた。しかも一匹や二匹ならまだしも、群れになって襲ってくることがほとんどなものだから始末に負えない。

「はんっ、この程度も魔物が何だ。おれの故郷のスズリ大陸ではなぁ――、」

 バッツはこんな事何でも無いと言わんばかりに鼻を鳴らし、自慢げな顔で一族の武勇伝を語り始めるが、シエロはそれをきれいさっぱり聞き流して肩をすくめた。

「別に俺らも神様のご機嫌を損ねるようなマネはした覚えは無いんだけどねぇ。お社のお供え物だって良識の範囲内でしか盗み食いしてないし」
「シエロ……、貴様いったいいつの間にそんな罰当たりな真似を……」

 ゼーヴルムが眉間を押さえて眩暈をこらえる。

「えっ、でも誰しも一度はやることだよね」
「そんな常識を勝手に作るなっ!」
「…………」

 スティグマはわずかに視線をそらすと唾を飲み下した。どうやら同意の言葉を飲み込んだらしい。

「えっと、でもアウストリ大陸ではこれが普通じゃないんですか?」

 落ち着かない様子で街を窺っていたジェムがふいに振り返って訊ねた。

「盗み食いが合法な場所はそうないと思うが……?」
「盗み食いじゃなくて魔物の件ですっ」

 ゼーヴルムのむちゃくちゃな勘違いに思わず声を張り上げる。
 というか、そんな国あったらちょっと嫌。

「やめてよ、普通はアウストリ大陸だってこんなに魔物出てこないんだからね。変な誤解しないでちょうだい」
「そ、そうなんですか!?」

 むっとした顔のフィオリに怒られてジェムは慌てて頭を下げた。

「こんなしょっちゅう魔物が出没してたら買い物にだってろくに行けないじゃないっ」

 心外極まりないと肩を怒らすフィオリをなだめつつスティグマもそれにうなずいた。

「わたしたちも東の大陸はだいぶあちこち旅をしてきたが、こうも頻繁に魔物に襲われたのは初めてだな」
「そうなんですか……」

 ジェムにしてみれば最初の『始まりの神殿』までの道のりさえも様々なトラブルに見舞われ続けたという経緯があるため、なんとなく旅とはこういうものだと思い込んできた節があるのだが、どうやらこれはだいぶ異常な事態であるようだ。

「ふむ……、これが何か惨事の前兆でなければいいのだが」
「えっ、でも平気でしょ」

 重々しく呟いた独白に、間髪いれずあっけらかんとした返事をされゼーヴルムは頭を抱えた。

「シエロ・ヴァガンス! どうして貴様はいつもいつもお気楽な返事しかしないんだっ」

「だって無駄にシリアスしたってしょうがないじゃーん。どうせなるようにしかならないんだしー」

「語尾を延ばすな、気色悪いっ」

 二人のやりとりにスティグマがくすくすと咽喉を震わせた。

「まあこれが仮に何かの前触れだとしても、たぶん君たちなら大丈夫だろう」

 例えこの先何が起ころうと、皆で力を合わせればきっと乗り越えることができる。
 気休めなのか声援なのかよく分からないが、ともかくスティグマは彼らにそう断言した。

「そうそう、案ずるよりは産むが易しだ。東の神殿まであとちょっとだし。こんなところで悩んでいるぐらいならとっとと先行っちまおうぜ」

 シエロがにやりと唇を吊り上げる。ジェムもその言葉に同意を示す。

「ええっ、ホントそうですね」

 ようやく最初の巡礼地にたどり着いたのだ。
 高鳴る鼓動を押さえつけ立ち止まってなんかいられない。
 いつの間にか歩みを止めていた足を高く持ち上げ、いざ勇み行かんとジェムは気合を入れたのだが、

「アレ? そう言えばバッツ君は……?」

 スティグマが不思議そうな顔であたりを見回した。

 ふと気が付くと、さっきまでいたはずのバッツがいない。おやっと首を傾げる間も無く、街のほうから足取りも荒く浅黒い肌の少年が歩いてきた。
  肌色が濃いため少々分かりにくいのだが、顔が真っ赤に染まっている。

「おまえらなぁっ、立ち止まるなら立ち止まるってそう言っとけよっ! おれ一人だけ先進んで阿呆みたいじゃねぇか!!」

 しかもずっと気付かずに居もしない仲間に向かって話かけていたようだ。

 なんだか泣きそうになっているバッツに彼らはおもむろに顔を見合わせると、

「ごめんなさい」

 と、ここは素直に謝った。

 なんともさすがに、気の毒だったからだ。