第四章 6、精霊が紡ぐ歌(1)

 


 その発覚は手柄でもあり、やっかいな問題でもあった。
 なぜ誰もその密輸組織を摘発できなかったのか。その理由は何にもまして明らかであり、同時にけして明らかにしてはならないものだった。
 この事件を最奥部まで暴き立てれば、どれだけことが大きくなるか。適当な所で手を打てと忠告する者もいたけれど、自分は追及の手を緩めなかった。
 そしてついに大物将校の摘発までこぎつけることができた。
 けれどこの手柄は同時に上官から煙たがれる要因になった。
 上官が欲しているのは融通の利く使いやすい手駒であって、正論を貫き、そのためには上官である自分の立場すら危うくするような部下はいらないのだ。
 しかし自分はこの生き方を改めるつもりは無かった。
 この功績によって自分は大尉に昇進し、とある特殊な任務を任されることになった。
 もっともその特進は暫定的な表向きのことで、これが一種の左遷であることははっきりしていたが構わなかった。自分はただ、自分の勤めを果たすだけだ。そう割り切っていた。
 しかしここで自分の運命を変える出会いを得ようとは、まったく想定の範囲外だった。


 
 

   ※  ※  ※


 
 バッツのひたいに濡れた布をあてがいながら、スティグマは深々とため息をついた。
「どうかしたか、先生(ドクター)
 冷たい水の感触に目を覚ましたらしく、バッツは気遣わしげにスティグマに声を掛けた。医者が患者に心配されると言うあべこべの状況にスティグマは思わず苦笑を漏らした。
「いや。フィオリたちは今頃どうしているのやら、と思ってね」
 無事に海賊島に辿りつけたのか。そしてジェムの手掛かりを得られたかどうかと言う心配はもちろんのこと。
 なにより父親を自任する彼としては、シエロのことを信用していないわけではないにしても娘の身を案じてしまうのは致し方のないことだろう。
「……断言はできないが、きっと無事だろう。シエロはあの通りふざけた性格の野郎だが、女子供を見捨てるほど薄情というわけでもない」
「そうだね、ありがとう」
 むすっとした口調でそう答えるバッツに、スティグマは思わず苦笑しながら礼を言う。けなしているのか信用しているのか分からないような物言いは、実に彼らしくもある。
 だが、次に彼が口にした言葉はバッツにしては意外なものだった。
「……すまなかったな、先生(ドクター)
「へっ、何かがかい?」
 ぼそっとした呟きだったが、その言葉ははっきりとスティグマの耳に届いた。バッツは決まりの悪そうな表情で視線を逸らし、身じろぎをする。
「おれがこんな身体じゃなければ、シエロの代わりにフィオリと行くこともできただろうに」
 デザイアへおもむくことになったのがシエロであるからこそ、その空の民であり風霊使いである立場は海賊たちの中で有利に働く。
 しかし実を言ってしまえば、医者であるスティグマも立場の有利さにほとんど変わりはなかった。たとえすでに船医がいたとしても、貴重な医者を粗雑に扱おうとする船はそうないに違いないからだ。
 自分の存在がスティグマの足枷になってしまったことに、バッツは負い目を感じずにはいられなかった。いや、スティグマだけではない。バッツはままならない自分の身体が仲間たちに負担を強いていることが、何よりも悔しくてたまらなかった。
「こらこら、何をばかなことを言っているんだい」
 唇を噛んで自己嫌悪に耐えているバッツの頭を、スティグマは優しく叩く。
「君が負い目を感じる必要はどこにもない。身体の不調は誰にだって起こり得ることだ。そして何よりこういう時のために、私がいるんだよ」
「だけど……っ」
「それに、負い目を感じるべきなのはむしろ私のほうだよ。医者でありながら、いっこうに君を治してあげられない。役立たずなものさ」
 スティグマはそう言って痛ましそうに自嘲する。その様子を見ては、むしろバッツの方が慌ててしまう。
「そ、そんなことは無いっ! 先生(ドクター)は立派な医者だ」
「そうかい? じゃあ、君も自分を責めるのはここまでにしてくれるかい」
 巧みな誘導にやられたと思いながらも、バッツはしぶしぶとうなずいた。
「分かった……。おれは医者には敬意を払う。あなたは中でも特に立派な医者の先生だと思う。だから、言うことには従おう」
「そうか、ありがとう」
 実直なバッツの言葉にどこかこそばゆそうにしながらも、スティグマは笑う。
「しかし、君はずいぶんと医者に好意を持ってくれているんだね」
「否定はしない。尊敬しているし、憧れてもいる。おれの故郷である砂漠に医者はいないぶん、余計にな……」
 どこか照れくさそうに寝返りを打って背を向けるバッツの言葉にスティグマはうなずいた。
「ああ、そうか。確かにスズリ大陸には他大陸みたいな医療制度はないって聞いたな」
 独り言めいた呟きに、ふとバッツは振り返った。
「間違ってないが……どこで聞いたんだ、それ?」
「ん。まぁ……知人にね。それより、私が思うにやはり君の不調は船酔いではないんじゃないかな」
 言葉を濁しつつどこか確信染みたことを言うスティグマに、途端にバッツは顔をしかめる。
先生(ドクター)まで、おれを軟弱者扱いするのかよっ」
「違うよ、そうじゃなくてね」
 スティグマは首を振る。
「特定の元素(エレメンタル)に対して深く馴染んでいる人は、その元素が乏しいところでは体調を崩しやすいんだ。君は火霊の愛し児だから、『火』の気質はひと際強いだろうしね」
 風霊に特化した精霊使いであるシエロは、それが分かっていたからこそ風素の薄い船室には滅多に近寄らなかったのだろう。
 それを証明するように実際に私略船の船室に閉じ込められた際にシエロは体調を崩したわけだが、もちろんそんなことをスティグマもバッツも知る故はない。
「じゃあ、おれは船を下りるまではずっとこのままなのか……っ?」
 海という水の上に浮かび、木造であるために火の気が厳禁の船の中で大量の火素など到底望めない。
 薄暗く底冷えする船室でバッツは思わず青ざめるが、その言葉にスティグマは首を振った。
「いや、私に少し考えがあるんだ。上手くいくかどうかはまだ分からないけれど……」
 そう前置きしてから、スティグマはバッツを見た。
「ちょっと船室から出てみないかい」



    ※   ※   ※



 目いっぱい広がった帆は全身で風を受け、白い波を切り裂くように船は全力で進む。
 じりじりと降り注ぐ太陽光に焼かれる身体をほんの僅かでも鎮めようとするかのように、海水の飛沫が時折肌にはねる。
 船旅というとなんとなくのんびりとしたイメージがあるけれど、その気になればこれほどまでに早く走ることができるのか。そう呆気に取られながら、ジェムは呆然と船べりから海面を覗き込む。
 もしこの海が波も風もないべったりとした凪だったら、海面にはひくりと顔を引きつらせた自身の顔が見えたかもしれない。だけど、風霊の寵愛を受けたこの船では凪に見舞われて立ち往生するなんて起こり得るはずもない。
「そんな所でぼんやりしてると海に投げ出されっちまうぜぃ。全速力の船は結構揺れるんだからねぃ」
「エジルさん……」
 ジェムははっと振り返ると、自分のお目付け役を任じられていた青年の顔を見上げる。
「あの……どうしてぼく、またこの船に乗っているんでしょう……?」
 ようするに、ジェムは再び海賊船《イア・ラ・ロド》の上にいたのだった。
 
 
 酒場でのダリアの号令のあと、海賊たちは大急ぎで出港準備に入った。もちろんいつ何時なにがあるか分からないのが海賊稼業というものだ。
 いつでも海に出られるようにある程度の準備はすでに済ませてはいたけれども、それでも今回のダリアの命令は突然すぎた。
 準備に荷造りにと大わらわの海賊たちに混じってジェムも手伝いを買って出ていたのだけれど、気がついた時には船はすでにジェムを乗せたまま船着場を離れていたのだった。せめてもの幸いは、船にジェムだけでなくシエロとフィオリも乗船したままだったということだろう。
 とりあえずまた旅の仲間と引き離されずに済んだことにだけはほっと胸を撫で下ろしたジェムであるが、だからと言って納得できることでは無い。
「どうしてぼくたちまで、船に乗せられているんですか?」
 ジェムは思わず恨みがましそうな目つきでエジルを見る。もちろんただの航海ならばジェムだってこれほど腹を立てたりはしない。だけど今回の船出の目的は、私略船の取引を止めること。すなわち荒事に発展する可能性が非常に高いのだ。
 そうなれば争いごとが苦手で、なおかつ操船作業だって習い始めたばかりジェムは単なるお荷物、彼らの邪魔にしかならないだろう。
「ええっと……単なる成り行き?」
 えへへっと笑って首をすくめられ、ジェムは思わず膝から崩れ落ちそうになる。しかもエジルはどれほど若く見積もっても自分よりは明らかに年上だろうに、そうした仕種が違和感なく似合う。いったい彼は本当はいくつなんだろうと、ジェムは思わず考えずにはいられなかった。
「ま、それは冗談としても」
「冗談に聞こえないのが怖いんですよね……」
「うん、まぁ半分は本当だからねぃ。船長はジェムのことが心配だったんでさぁ」
 さらりと告げられた衝撃の事実はあっさりと流され、仕方なしにジェムは後半部分だけをエジルに聞き返した。
「ぼくが心配だったって、どういうことですか?」
「うん。ジェムは昨日の昼間暴漢に襲われかけたろう? それでお頭は、自分の目の届かない所にジェムを置いていくのが不安になったんでさぁ」
 船長は相当の自信家だから、この戦いで自分が負けるとはいっさい考えちゃいないしねぃ。そう言ってエジルは肩をすくめる。
「じゃあ、……この船は他の場所に比べれば安全なんですね」
 ジェムはせめてもの希望にすがってそう尋ねたが、エジルはけらけらと笑って両手を広げる。
「んなはずないってよ。北の私略船と一戦をやらかそうとしてる船でせぇ? むしろこの海域でこの船よりも危険な船の方が少ないさねぇ」
 がっくりと肩が落ちる。そんな気の滅入るような事をあっさりと言わないで欲しいとジェムは心の底から思う。
「本当に、なんでダリアさんはぼくらを連れてきたんでしょう……」
「さてねぇ。それはそれこそお頭に聞いてもらわねぇと。だけどキニアス操舵手殿はお前さんらが乗船することには反対だった見たいだけどねぇ」
「グレーンさんがですか?」
「そっ。なにやらそのせいで乗船前に一悶着あったとか何とか……」
「グレーンは人一倍心配性なんだよ」
 ジェムははっとして振り返った。
「ダリアさんっ」
「お袋みてぇにこちゃこちゃと口煩くってよ。まぁ、そうやってあいつが率先して後のことまで気を回してくれっから、俺は安心して前を向いていられるんだけどな」
 視線の先には、なにやらそっぽを向きながらそううそぶいているダリアがいた。言葉は悪いが、それもどうやら彼なりの照れ隠しだった模様だ。
「もっとも、だからと言ってグレーンの言うことをまるっきり聞き入れるわけにもいかねぇ。〈イア・ラ・ロド〉の船長は俺であってグレーンじゃねぇからな」
 にかっと笑うダリアの表情からは、確かに海賊の一味を預かる船長としての矜持が見て取れる。
 そんな堂々とした彼の様子に少しの憧れを抱きながらも、ジェムは改めてダリアに自分を連れてきた理由をたずねた。すると、ダリアはどこか呆れた顔をする。
「すっかり忘れてるかも知れねぇけどよ、お前はオレの捕虜なんだよ」
「あ……」
 ジェムは思わず口を閉ざした。まさしく図星である。
「つまりだ。オレにはお前の最低限の安全に配慮する責務があるってことだ。お前はなんつうか……厄介ごとを引き寄せやすい性質みてぇだしなぁ」
 海賊島でジェムが巻き込まれた事件を思い出してか、ダリアは同情するような表情でぽりぽりと頭を掻いた。
「それに、お前らには見せておきたいものがあったしな」
「見せておきたいもの?」
 それはエジルも初聞きだったらしく、同様に首を傾げている。
「ああ、そろそろ問題の海域に近付くはずだ」
 ダリアはそう言って海の向こうに視線を向ける。それにつられるように海を見たジェムは、その一瞬、吹き寄せる風が澱んだように感じられた。
「たまたま目的に向かうのに側を通るからな。ほら、向こうに島があるだろう」
 目を凝らすと確かに水平線際に島影が見える。
「あ、本当だ。おかしら、あれはいったいなんですかぃ」
 いつの間に用意したのか、手際よく望遠鏡で確認してエジルが不思議そうな声を漏らす。ジェムもそれを借りて遠くに覗き見た島は、むき出しの黒い岩肌と灰色の地肌が大部分を占める荒れた島で人の気配どころか生き物の姿も伺うことができない。
 この島のいったい何をダリアは見せたかったのだろうかとジェムが首を傾げていると、ダリアがぼそりと言った。
「あの島は三百年ほど前には真水が湧き緑豊かで、この近辺を通る船の重要な中継地点だった」
 だがそれも今は見る影もない。乾いた岩山だけがそびえる死の島だ。
「あの島は、封印石による外法の末路だ」