慎重に弦を引き絞り、狙いを定めて矢を放つ。
罠を仕掛け、息を殺して獲物が掛かるのをじっと待つ。
影のように忍び寄り、その鋭い爪で一気に引き裂く。
それがいわゆる狩りの手法。
獲物は哀れな犠牲であり、貪り食われる宿命の生贄でしかない。
けれど悦に入る狩人は、往々にして忘れてしまう。
どれほどか弱き獲物であっても、その無慈悲な運命にいつも無抵抗でいる訳ではないということを。
易々とは狩られまいと、知恵を絞り、全力を尽くし、時には幸運の女神さえも力付くで味方につけ、命懸けで狩人の手から逃れるべく奮闘する。
だから果たしてどちらが強者で、どちらが弱者であるのかは最後の最後まで分からない。
それにもしかすると獲物と目した相手は、陰で舌なめずりして待っているかも知れない。
愚かな狩人を逆に追い詰め、喰わんとせんと――、
研ぎ澄ました聴覚を引っかくように、微かな鈴の音が鼓膜を震わせた。ふと顔を上げると同時に、馴染んだ気配が傍らに戻るのを感じる。
「――今、鈴の音がしたよな?」
(是……)
気配に向かって訊ねると、遠いとも近いとも判別しがたいささやきが耳元をかすめる。――だからおれはその喋り方は耳朶に息を吹きかけられているようで、好きじゃないんだってば。
いくら頼んでもいっこうに配慮してくれる様子のない相手に半ば呆れつつも、おれは現在の状況を尋ねかける。
「んで、相手はどうなんだ? 仕掛けに引っかかったということは、だいぶ近付いてきているみたいだが」
(まだ居場所を掴まれてはおりません。もっともまだ探索を諦めるつもりは毛頭無いように見受けられます)
「ようするに、このままでは遠からず見つけられちまうということだな」
(……是)
先程よりもずっと苦々しげ――と言うか、もどかしげな返事が戻ってくる。おれは軽い調子で肩をすくめて見せる。
「まったくしつこい奴らだよな。ところで聞くけどさ、『ラミア』と『ベルヴァ』ってどっちが強いんだ」
しかし訊ねた質問は、返って来ない。おれはちょっと眉をひそめ、問を重ねる。
「どうした。答えろよ、カーム」
(……部門によって相性がございますので――、)
「ようするに、お前よりあいつのほうが強いと言うことだな」
ためらいがちに言われた言葉を簡潔にまとめると、かなり憮然とした気配が隣から漂ってきた。どうやら奴のプライドをいたく傷付けてしまったようだ。こいつもだいぶ反応が分かりやすくなってきたもんだ。――いったい誰の影響かな。
「若さま」
ふと傍らの闇が凝り固まって、一人の小柄な男の姿を形成する。
「自分が囮になります。ですから若さまはどうかその隙に、遠く、奴らの手の届かない所までお逃げください」
黒い覆面、黒い服、ついでに黒髪黒目という黒尽くめのこの男はどこか悲壮感漂う様子で、おれの前に跪く。決死の覚悟、という雰囲気がありありと伝わってくるが、おれはいささか呆れた気持ちでたずねてやる。
「あいつの手の届かない所ってどこだよ。てか、あいつより弱いお前の足止めって、いったいどれくらい当てにできるのさ」
「……」
返って来るのは沈黙ばかり。おれはやれやれとため息をついた。
「大体そんな小細工を弄するには、ちょっとばかし遅すぎるんだって事に気づけよな。お前一応エリートの護衛だろ」
「……御意」
がっくりと俯き落ち込む護衛を励ますように、おれは笑ってみせる。
「安心しろ、日の出まで持ちこたえれば何とかなる」
「何度も申しておりますが、ベルヴァは朝になったからといって諦めるような甘い連中ではございません。奴らは暗殺者ではなく、殺し屋です。人目を気にするような神経は持ち合わせておりません」
咎めるような、躊躇うような、そんな忠告を受けるがおれはただ肩をすくめる。
「化物は太陽の光に弱いんだろ?」
「毎度のことですが、護衛対象が非協力的ではこちらの処理能力にも限界がございます」
茶目っ気たっぷりに言ってみせるが、奴は淡々と事務的な返事をするだけ。仕方が無いのでおれは最後の手段に出た。
「大丈夫だ。おれを信じろ」
「…………ふぅ」
なんかため息で返された!
本当にこいつは、腹の立つ護衛だよな。
おれは視線を空へと向ける。日が昇るまでは、まだ時間があった。
北の大陸は南方に比べて冬が長い。
そのため北の地にある学校の多くは大抵、夏季休暇よりも冬期休暇のほうが長く設定されている。このサチェス神学院もそれは例外ではなく、冬休みの長さに比べ夏の休暇は半分しかない。それでもどこかに小旅行でもと洒落こむ分には充分なので、この時期になれば学院の寮は閑散としている。
ルームメイトが友と連れ立って旅行に行ってしまったため、一人きりとなった部屋の中でおれは手紙を眺めていた。入学してから幾度か寮で休みを過ごしたことはあったけれど、まったくの一人で始業日を待つのは初めてだということにしみじみと思い至る。
これまで休暇の多くを共に過ごしてきた級友が、いつ戻るかもしれない旅に出てから早半年。時折思い出したように手紙が届くが、いったいいつになれば復学するのやら。この調子では自分が卒業する方が早いんじゃないか。
おれは先日届いてから幾度と無く読み返し、文面をすっかり暗記してしまった手紙にまた視線を走らせる。便箋を捲るとその拍子に、後ろに重ねていたもう一枚の封筒がかさりと音をたて存在を主張した。
そういえばこれの事をすっかり忘れていた。おれはついついため息をついてしまう。
(面倒臭い……)
机上の蜀台に封筒をかざしてみるが、改めて目を通すまでも無く内容はしっかり頭に入っている。こちらはもう読み返す気分にもなれずぴらりと手の中で遊ばせた。その時、
「若さま」
突然、背後で闇が実体化した。
「カーム、どうしたんだ。いきなり」
珍しいモノを見た気分で、おれは小柄な黒尽くめの男に目を向ける。
おれがカームと呼んだこの男は、鼻持ちならない業腹爺、もといおれの祖父が遣わした護衛である。本当はイルズィオーンのラミアというらしいが、これも実際は名前では無いらしい。なんだかごちゃごちゃと面倒臭い事を言うので、おれは勝手に『凪(カーム)』とあだ名を付けて呼んでいる。
普段は目に映らない形でおれの護衛をしているので、こうやって呼ばれもせずにいきなり姿を現すのは珍しいことだ。
「若さまに至急お知らせしたいことが――、」
「ちょうど良かった。お前に聞きたいことがあったんだ」
互いの台詞がちょうど被る。おれは「おやっ?」と思ってカームを見たが、奴が戸惑ったように口をつぐんだのを見て、すかさず言葉を続けた。
「イルズィオーンから派遣される人材っていうのはさ、ぶっちゃけ金払った奴に仕える訳? それともそいつの家に仕えんの?」
「いえ、あの、若さま……っ」
「答えられないのか?」
あからさまに挙動不審気味な動作を見せていた奴は、どうやら意を決した様子でまっすぐにおれに向かって言った。
「若さま、緊急事態でございます」
カームはおれの足元に跪き、焦燥を顕わにした声で訴えかける。
「どうかすぐにここからお逃げ下さい。若さまのお命に危険が迫っております」
「はぁ?」
日常生活からは掛け離れた大仰な言葉に、おれはきょとんとする。だがカームは真剣だった。
「ベルヴァが、向かっております」
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