「若さま」
肩を揺り動かされた刺激で、おれは目を覚ました。薄暗い周囲に緑深い森の気配。おれはここが自分の自室ではなく、カームの用意した隠れ場所である事を思い出した。
てか、おれは知らず知らずの間に眠ってしまっていたらしい。強張った肩をほぐすため、あくび交じりに伸びをすると思いっきり腕をぶつけておれは顔をしかめた。
「ったくよ、あんまり遅いから待ちくたびれて眠っちまったぜ」
ぼやき混じりにカームを見ると、奴はなんとも信じられないようなものでも見る顔でおれを見ている。……なんだよ、その顔はよ。
「それで、なんか分かったのかよ」
寝ぼけ眼を擦りつつそう尋ねると、カームは神妙な様子でうなずいた。
「やはりベルヴァはこちらに近付いてきている模様です」
「てか、それは最初から分かりきってることだろ」
「……」
カームは気を取り直して続けた。
「まだ学院の敷地内に侵入した様子はありませんが、念のため仕掛けを施してきました」
「仕掛け?」
カームは返事のかわりに、一枚の札と小さな金属をおれに差し出してきた。
「まずこの札です。この学院の周囲一体に結界を張ってまいりました」
「結界? 風霊魔法か何かか?」
重要な施設や建物には、風霊魔法による結界が張られていることが良くある。もっともおれもここにきて初めて知ったのだが、不思議なことにここ北の(ノルズリ)大陸においては精霊魔法が使われることはほとんどない。
「いいえ。精霊魔法とは違います。この結界には踏み込んでくる相手を足止めする力は在りません」
「じゃあ駄目じゃん。役に立たないぞ、それ」
「ただ、何者かが侵入したということは察知できます。結界に引っかかればこの札が燃えますのでご注意ください。そしてこちらですが」
おれは渡された小さな丸い金属――鈴を見る。
それは極々小さな鈴だけれども、手の中に転がされたそのわずかな動きだけで、よく通る涼やかな音色を立てる。
「この周囲に目立たぬように糸を張り巡らし、その先にこの鈴を仕掛けました。これで山中に人が入れば、すぐにそれと分かる様になっております」
「……それってさ、逆に言えばその糸をたどりさえすれば、おれの元に辿り着けるってことじゃね?」
「いえ、幾重にも偽装を施しておりますのでご心配には及びません。囮としてそのほか人が潜むに足りると思われる場所にも、同様の仕掛けを施してあります」
「ああ、なるほど……」
おれは納得した。そうすれば、おれの隠れているこの場所周辺に仕掛けられている罠を見ても、そのほかの囮と区別が付かないということか。なら、一番最初に見つけられるのがこの場所でない事を祈るしかないな。
日ごろの不信心を払拭するような熱烈さで神に求愛――もとい安全祈願をしながらおれは、隣で周囲の警戒を続けている護衛を眺めた。
やはりこいつら『ラミア』が向いているのは防衛のようだ。攻撃は最大の防御とも言うが、護衛を専門にしてきたという部門『ラミア』にとっては向かってくる敵に備える方が得意なのだろう。
おれが思うに、自分よりも格上の人間を相手取って勝つための絶対条件は、相手を自分の土俵に引きずりこむことだ。自分の得意とする分野で戦えば、少なくとも相手のペースで戦うよりも勝率は跳ね上がる。
そのためには自分が何を得手としているか知っておく必要があるのだが、この護衛はどうにもそういうことをいまいち理解していない模様だ。
自分に得意とするものなんてないと思っているのか。それとも言われた仕事だけを機械的にこなしていけばいいと思っているのか。
どちらにしてもそれは玄人としてはいささか信頼に欠ける姿勢だということに、果たしてこいつは気付いているのだろうか。
おれが小さくため息をつくのとほぼ同時に、突如、結界の札が炎を上げた。うっすぺらい紙はめらめらと燃え、瞬く間に白い灰へと姿を変える。
「……どうにも、せっかちなお客さんみてえだな。もうこっちにやってきたらしいぜ」
「是……」
おれはごくりと息を飲む。カームも警戒の色をその目に浮かべている。
そして最初の鈴が涼しげな音色を奏でるまで、そう時間はかからなかった。
鈴は時折思い出したように音を奏でる。
最初は鈴の音が聞こえるたびに身を硬くしていたおれだったが、この頃になるとすっかり慣れてしまい涼しげに鳴る鈴の音にも泰然と構えていられるようになった。
だがカームは鈴の音が聞こえる回数が増えるにつれて余裕を失っているようで、ぴりぴりとした緊張感がこちらにも伝わってくるようだった。むしろここまで来てしまったら、来るときは来るものとして、もうのんびりしているしかないんじゃないだろうか。
仕方ない。おれはひとつため息をつくとカームに話しかけた。
「なぁ、カーム。お前はどうしてイルズィオーンの護衛なんて仕事をしているんだ」
カームはきょとんとした目をおれに向けてくる。
それはこんな状況にもかかわらず、関係のないことを聞いてくるおれに対する呆れの表情ではない。いったいおれが何を言っているのか、理解できていないという表情だ。
「どうした。おれ、何かおかしなことを言ったか?」
「……いいえ。ですが、若様。自分はラミアに選んでなったわけではありません。ラミアとして作られた、ただそれだけです」
「ラミアとして作られた?」
素っ頓狂な声で出るおれの疑問符にカームは「是」と頷く。
「イルズィオーンの駒は、幼少時にその適性によって分類されます。そして分類された属性ごとにそれぞれの修練を積ませ、特徴ある『駒』として完成させるのです」
まるで他人事のような口調でそう答えるカームに、おれは胡乱な視線を向ける。
「それはお前にラミアとしての適性があったから、ラミアに振り分けられたと言うことか。そんなガキの頃に?」
「是。その通りです」
「他に、選択肢はなかったのか。例えばラミア以外の分野になるだとか」
あるいは、そもそもイルズィオーンの構成員にならないという選択肢はなかったのか。
「若様。我々はイルズィオーンの駒です」
しかし奴はひたとも揺るがぬ眼差しで真っ直ぐにおれを見ると、至極当然の口調で淡々と答えた。
「そしてイルズィオーンの駒には、自我と言うものは存在いたしません。それゆえに、選ぶという主体がまずないのです」
それはいっそこの世の理、疑う余地もない自明の理でも述べているかの調子だ。
イルズィオーンの駒に名前はない。
それは一個の道具であり、一人の人間ではないからだ。
彼らはただ主人に仕え、その命令を果たすためだけの存在。
使い捨ての、便利な『物』でしかない。
だけれどおれは、そのことに非常に腹立たしい気分を抱かずにはおられなかった。
「カーム」
「何でございましょうか、若様」
「お前はカームだ」
おれは否を挟ませない確固たる口調でそう断言する。
「お前が何らかの事情で引退して故郷に引っ込むことになって、代わりの奴がイルズィオーンから派遣されてきたとしても、おれはそいつをカームとは呼ばない。おれにとってカームとはお前一人を指す名前だからだ」
イルズィオーンのラミアたる奴は、無言でおれの前に控えている。
「カーム。お前の一族の方針がどうなのかは知らないがな、おれは意思を持たない人形なんかに自分の命を預けるつもりはさらさらない。それくらいならおれは、自分の身は自分でなんとかする」
おれは真っ直ぐにカームのその漆黒の眸を睨みつける。
「お前がおれの爺に雇われている存在だというのはもちろん分かっている。だけどな、お前が使われる道具としてではなく、主体的におれを護衛しようとしない限りは、おれはいつまでたってもお前の護衛業務には非協力的なままだからな」
おれのその言葉にカームはどこか呆然とした眼差しでおれを見る。困りきった様子におれはちょっと哀れになるが、だからと言ってここを譲ってしまったら元も子もない。
おれはこれでもこいつをかなり気に入っている。親しみを感じていると言ってもいいかもしれない。少なくともこいつを遣わした爺よりはよっぽど好感を持っている。
だけどそれは、お気に入りの『道具』としてではなく、命を守ってくれる大事な『護衛』としてだ。この二つには天と地ほどの隔たりがある。
『護衛』と『護衛対象』の間に何よりも必要なのは信頼関係。
『護衛対象』は相手が自分の命を預けるに足りる存在だと認め、一方の『護衛』にとっては相手が自分の指示に確実に従ってくれると疑わずにいられるからこそ、『護衛』は最大限の力を発揮することができる。
逆を言えば、互いに疑心暗鬼でいるのでは、敵から守りきるということはできやしないのだ。
だからこそ、おれは奴を一人の人間として信用したい。いや、しなければならない。
そのためには他の誰でもない、カーム自身にこそその自覚を持って貰う必要があるのだが、やはりこいつはそこのところをいまいちよく理解できてはいないようだった。
カームは困惑の様子で、おずおずと口を開く。
「若様、自分は道具なのです。それゆえに自我というものは存在せず、主体を持つことは有り得ないのです」
それは奴の口から何度も聞いた決まり文句。
おれはかなり気の長い方だが、これにはとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「ああ、そうかい! それならもう、お前に守ってもらう必要はないなっ」
おれは沸騰しそうな感情を抑えることなく、乱暴な動作で隠れ場所である木の洞を飛び出した。
「わ、若様っ!? いけません、危険です!」
「自分の身は自分で守るから放っとけ!」
ブチ切れてしまったおれは、もはや慌てふためくカームの言葉に耳を貸さない。だが、いくらなんでもさすがにこれは軽率すぎた。
「若様……っ!」
突然、カームの声が鋭く変わった。おれは背後から突然カームに突き飛ばされて、ごろごろと地面を転がる。慌てて顔を上げると、おれが直前までいた場所に光を弾く幾本もの刃が突き刺さっていた。
カームはおれを守るべく、目の前に立ちふさがっていた。そんなカームの背中越しに見えるのは、奴と同じ黒尽くめに黒い覆面、そして小柄な体格の男。しかし、その覆面の隙間から伺えるのはカームとは違って感情を一切排除した、不気味で空虚な眼差しだ。
男――ベルヴァは一言も喋らず、ただ無言で短剣を掲げる。それはどんな意思も感情も排した、機械的な淡々とした動作。しかし奴から放たれ向けられる殺意は、平和の中でのん気に暮らしていたおれの足を竦ませるのには充分だった。要するに、おれは腰を抜かしてしまっていたのだ。
(若様……)
近いとも遠いとも付かないささやきが耳を掠める。おれははっとして目の前のカームを見た。
(ここは自分に任せてお逃げください)
カームはおれをちらとも見ず、油断ない動作で短刀を構える。それはまさしく護衛としての本分を充分に発揮した隙のない構え。
「だ、だけど……」
(いいから、行きなさいっ!)
カームはおれを後ろ足で蹴りつける。それに触発され、凍りついたように動かなかったおれの身体は弾かれたように動いた。
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