≡ 猫舌屋あやし目録 ≡ |
長閑で呑気な住宅街の中に、その店は突如としてあったりする。 それは都心と呼ばれる繁華街から電車一本で着ける、まぁ一応そこも都内には分類されているけれども都会と言うよりはもうちょっと田舎臭い町の一画。
有体に言ってしまえば『猫舌屋』とは、そんな摩訶不思議な店なのである。 風薫る五月と言う言葉もあるが、この国ニッポンでは今の季節がもっとも心地よく過ごしやすい気候であると言われている。実際日向にいれば汗ばむほどの陽気だが、カラリと乾いた風が体感温度をちょうど良い具合に下げていた。
例えばここ、猫舌屋の店の前にも、軒先に並べられた(と言うか置き捨てられた)木箱にだらりと座り、ぼーっと煙管を吹かしている男がいる。 ひょろりと縦に長い棒っ切れのような体格。それほど年を食っているようには見えないけれど、どこか寝とぼけたような表情がご隠居を思わせる老成した雰囲気を醸し出している。
なにしろこの男、格好が飛びぬけて胡散臭い。 洋装が大勢の占めるこのご時勢に黒の着流し。しかもそれだけならまだしも足元はごつい黒ブーツで固められ、頭は真っ赤に染めあげられている。
道を歩けば半径三メートルは人が近付かないだろう装いだが、しかし意外とこれで近所のおばちゃんズ、子どもたちの間では見た目はアレだが気のいい青年として親しまれたりしているから世の中不思議だ。
恐らくはうららかな初夏の陽気に誘われたのだろう。店主は朝からずっと店先でぼんやりと煙管をふかしていた。
店主がこうなのは、まぁ言ってしまえばいつものことで、肝心要の彼が毎度この調子ではいつか店が潰れてしまう日もそう遠くないだろうと推測される。
しかし実際は不思議なことにどれだけ店主が怠惰に振舞おうと、この店から客足が途絶えたことは一度もない。 なぜならこの店を訪ねる客は、その大半が何かしらの必然性を持ってやってくるから。それはまるでその運命の糸が、この店の軒にでも繋がってでもいるように――。
「ねぇ、猫舌屋というのはここの事かしら」 彼はおもむろに顔をあげる。
「はぁ……お客さんですね」 彼はすっと目を細め、ひとつ大きなあくびを漏らした。そして伸びをするついでのように立ち上がる。それは屋号が示すとおり、まるで大きな猫を思わせる仕種である。 「まぁ、こんなところで話をするのもなんなので中へどうぞ」 意外に俊敏な動作でがらりと横開きのガラス戸を開くと、彼は何食わぬ顔で本日最初の客を店の中へ招きいれるのだった。 薄暗いと思えた店内は飽くまで外と比べればのもので、いったん中に入ってしまえばさして気にならないぐらい充分な照明がついていた。
そんな無秩序に商品が並べ立てられた棚の抜け、店の奥に足を伸ばすとそこには一脚のテーブルがあった。たぶんここがこの店の商談用スペースなのだろう。店内の様子にわずかに躊躇っていた女性は意を決したようにそこに腰を降ろした。 「まぁ、粗茶ですが」 からん、という涼しげな音に女性が顔をあげると若い店主が盆に飲み物を載せてやってきた。ロッカーやビジュアル系もかくやというトリッキーな格好に反して、客あしらいは意外とまめまめしい。氷の入った緑がかった液体はたぶんアイスグリーンティか何かだろう。 「あら、ありがとう」 卒ない態度でグラスを受け取り、女性は外したサングラスをテーブルの上にこつんと置く。
「なにこれ、美味しい!」 口に入れた瞬間、ミントにも似た清涼感がさっと舌の上に広がった。苦味とほのかな甘みがすっきりとした後味に華を添える。これはどうもただのグリーンティでなどではない。もしかするとハーブティの一種なのかもしれないが、どちらにしてもこれまで口にしたことがないような味だ。 「とても美味しいお茶だわ。ねぇ、これあなたが淹れたの?」 思わず本気で問い質すと、店主は首を横に振った。 「いいえ、うちには居候が一人おりましてね。今は折り悪く家を空けているのですが、そいつが出掛けに淹れていったお茶なんですよ」 彼は肩をすくめて薄く笑う。 「見ての通り、僕はそうした卓越したセンスと技術が必要な作業には向いていない」 とぼけた言葉は思わず彼女の笑いを誘うが、それに対する反対の意見は結局お世辞にも最後まででてこなかった。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。僕はここ猫舌屋の店主、常居ツグト」
疲れ果てた老人のような口調で呟く彼に、彼女はくすくすと笑う。 「ずいぶん愉快なお知り合いが多いみたいね。やっぱりお人柄の所為なのかしら」
彼はやれやれとため息をつき、彼女はまたおかしそうに笑った。そしてそれからはたと気づく。 「いやだわ。そう言えば私のほうはまだ名乗ってなかったじゃない。私は――、」
何気ない店主のその言葉に、彼女はぽかんと目を見開いた。アーモンド形の大きな瞳がぱちんと音をたてて瞬く。 「……あら、驚いた。失礼ですけど大衆娯楽にはまるで興味がない方だとばかり思ってましたわ。それともその……噂に聞く不思議な力で名前を知ったの?」
店主は肩をすくめて店のさらに奥にある従業員の休憩用らしきスペースを指差す。わずかに開いたガラス戸の向こう、畳敷きの狭いスペースには昔懐かしいダイヤル式チャンネルのテレビが直に床に置かれていた。よもや白黒ではないだろうと信じたい。 「それにそんな眉唾な噂なんて信じちゃいけませんよ。僕は芸能界にはたいして詳しくは無いけれど、実力派の女優の名ぐらいは知っています」 すると女性は途端に人形のように整った顔に、にっこりと笑みを浮かべて見せた。 「そうね。むしろそっちの方が私にとっては有り難いわ。私はまだ世間ではそれほど名が知られて無いと思ってたけど、考えを改める必要がありそう」 作り物のように綺麗なそれは、ドラマの中でも良く見せる彼女の十八番の表情であった。 國立恵理加――彼女はいわゆる役者、女優と呼び称される類いの人間だ。
ようするに彼女は一流と呼び称されるには、残念ながらそれに必要なインパクト――人々に訴えるなにがしかのものが欠けてしまっているのだった。
もっとも、一度ならずもブラウン管に映されれば、それだけで普通の人間にとっては立派な芸能人だ。ツグトはどこか不思議そうに彼女にたずねた。 「しかし、そんな有名人さんが当店にどんな御用で。他でもないこの店にわざわざいらしたぐらいだ。そこらで用立てられるものがお入用ではないんでしょ」
彼女は真剣な様子でうなずく。 「私、――になる薬が欲しいの」
ツグトはきょとんと瞬きをする。 何か非常におかしな言葉が聞こえた。まさかこの薔薇のような朱唇から聞こえるとは思えない、いや、むしろ是非とも聞き間違いであって欲しい思われる単語だ。 「いま貴女、なんとおっしゃいましたか?」 だから猫舌屋の店主、常居ツグトは信じられない思いでもう一度彼女に聞き返した。 しかし彼女の答えは一切変わらなかった。女優、國立恵理加は至極真っ直ぐな眼差しで、寸分の躊躇いもなく、はっきりと店主に申し出たのだ。 「私は、妖怪になりたいの」 ツグトは今度こそ呆けたように、ぽかんと口を開いた。
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