≡ He is perfect Hit man. ≡
日ごろの運動不足が祟ったのか。駅からここまで全力疾走の上、六階分の階段を一気に駆け上った僕の足はとうとう白旗を揚げ、これ以上は一歩も動けませんぜ、ダンナ。と言わんばかりにがくがくと震えていた。 螺旋階段の終点は屋上だった。 犯人を捜してきょろきょろと周囲を見回したものの、そこは見事なくらいがらんとしている。と、言うか見晴らしが良いにも程がある。 なにしろそこには遮蔽物は一切存在しないない。どうやらビルの持ち主が安全管理にかなり無頓着だったらしく、フェンスどころか柵さえも存在しないのだ。ここで仲良く鬼ごっこでもしようものなら全体の四割はうっかり地上へダイブしそうな危うさがある。 それでも諦めきれずきょろきょろとあたりを見回していたとき、僕は背後から突然肩を叩かれた。 「――誰を探しているのかな?」 どきんと心臓が跳ね上がった。 僕は振り返りざま飛び退ったものの、疲れきった足にそれだけの反応を求めるのは無理だったらしい。足をもつれさせてぶざまに尻餅をつく。 「おやおや。大丈夫か」 男が僕を見下ろしくすりと笑った。 年の頃はたぶん二十代半ばからせいぜい三十代前半だろう。
近付いてくる相手から逃げるように、尻餅をついたまま僕はずりずりと後ずさる。
そう。どうひいき目で見てもまともでなんかあるはずがない。
鼻メガネをつけていた。
「こうやってターゲットと顔を合わすのは久々だ。なかなか手こずらしてくれたじゃないか」 男は僕を見てにやりとほくそ笑んだ。 「しかしついに年貢の納め時だな」 まるでプロレスのヒールのような分かりやすい悪役口調。もっとも鼻メガネの所為で迫力はだいぶこそぎ落とされている。 「あんた、仲間内ではサトちゃんと呼ばれているらしいな。短い間だが俺もそう呼ばせてもらおうか」
そう叫ぶと男はおやと眉を上げた。 「見て分からないか」
もちろん分かるはずがない。どうしても答えろというのなら人気急上昇中の若手コメディアンにファイナルアンサー。ただしそれはあくまで希望的観測に過ぎない。
「俺は殺し屋だ。とある人物からおまえを殺すように依頼を受けた」
僕は思わず高々と声を張り上げた。 「殺し屋に狙われるような覚えなんてまるでないぞ!」
魚のように目を丸くする僕に、男は訳知り顔で頷いてみせる。 「俺の経験から言うとほぼ間違いなく、標的の九割方がそう言うな」 ……確かにそれはそうだろう。
いわく――そんなの冗談じゃない、だ。 だいたい殺し屋に狙われているにしては納得しがたいことがいくつもあった。 「殺し屋、ということは僕の命を狙っているという事だよな」
疑問を解消すべく尋ねると、殺し屋はなぜだかいきなりぷんすかと怒り出した。 「あれはな、証拠を残さないもっとも完成された殺しのスタイルなのだぞっ」
まったく意味が分からない。
「いいか。この世の中、普通なら死ぬはずないような事であっさり死んでしまう人間が少なからず存在する。鼻血で命を落とす者もいれば、小さな菓子の欠片を気管に吸い込んだだけで死ぬ者もいる。学校のグラウンドから飛んできたホームランボールが脳天に直撃して死ぬ者だっている。だがそういった者はほぼ必ず運が悪かったのだと称され、それが仕組まれたことであるとはほとんど考えられない」
そんな非効率的な殺人方法を真面目に考える人間がいるとは到底思えない。そんなことは滅多に起こらないから偶然と言われるのだ。
だけど、世の中は広かった。
例えば今、目の前に。 「隕石が落ちてきて死ぬ確率は、宝くじの一等が当たる確率よりも高いんだぜ。だいたいどれほど確率の低い死因でも、狙って行えば死亡率は格段に跳ね上がる。しかもそれが馬鹿げた死因であればあるほど、殺人と気付かれる可能性は低くなる。そこに我々のような人間の付け入る隙があるのだ」 男はにやりと笑って言った。 「実際に俺はこの方法でほぼ百パーセントの成功率を誇っている」 殺し屋は懐から凶器を取り出し、構えた。 「さて、サトちゃん。誰ひとりとして死んだことがないような、突飛で伝説級の死に方が出来る己を光栄に思うがいい」 躊躇いなく得物を振りかぶるその姿に、しかし僕はこんな場合にも関わらず開いた口が塞がらなかった。 「ち、ちょっと待てっ!! お前、それでいったいどうするつもりだ!」
殺し屋はあっさりと答えた。 「ピコピコハンマーで撲殺」
僕は思わず叫んだ。 男が取り出したのは昔懐かしい玩具のハンマーであった。蛇腹のクッション状の頭部に黄色い柄が付いている。もちろん安っぽいプラスチック製品に殺傷能力は皆無だ。 「無理だっ。そんなもんで死ねるはずがない!」
懸命に常識を訴えると男はやれやれと肩をすくめた。 「仕方がないな。そんなに気に食わないと言うのなら、ここまで粘った褒美として特別に死に方を選ばせてやろう」 好きな死因を答えるんだ、と奴は言う。しかしもともと黒板消しやらバナナの皮なんかで人を殺そうと考えるような殺し屋だ。代替案だって土台まともであるはずがない。 殺し屋は黒皮の手袋に包まれた指をぴんと立てた。 「一番。――豆腐の角に頭をぶつけて、脳挫傷」
僕は全力で突っ込む。 「じゃあ二番。馬に蹴られて全身打撲」
しかも段々趣旨がずれてきたし。
「我が儘だな」
思いっきり裏拳を入れる。
「お前、絶対面白づくで殺し方選んでるだろう……」
殺し屋は暮れつつある夕陽をバックに、自分の腕時計を確認して舌打ちする。ちなみにモノは限定品のドラウォッチだった。 「……仕方がない。こんなことは俺の美学にそぐわないのだが、こうなれば手段を選んではいられないな」 殺し屋はピコピコハンマーを放り捨てると懐から新たな武器を取り出した。 「さあ、撃たれたくなければそこから飛び降りるんだ、サトちゃん」 僕はそれを見てはっと息を呑んだ。 「拳銃……!」 すっかり油断していた。
「くっ……、飛び降り自殺にでも見せかけようというんだな!」
つうか果たして飛び降り自殺との違いはどこにあるのだ。 「果たしてどちらが面白……楽な死に方か、いくらなんでも理解できるだろう」
やっぱりこいつは笑いを優先して殺し方を選んでやがるっ。 だけどそれでも僕が現在殺されかかっているという事には変わりは無かった。
「さあ、もう後がないぞ」 蒼ざめ引き攣る僕の顔を見て、殺し屋はにやりとほくそ笑んだ。
「潔く覚悟を決めるんだな、サトちゃん。いや――佐藤信夫っ!」
だけど僕は反射的にきょとんとしてしまった。 「…………誰、それ?」 そうして思わず聞き返す。 「誰って、往生際が悪いぞっ。佐藤」 びしりと再度指を突きつける殺し屋に、僕はいやいやと手を振った。 「僕は佐藤じゃなくて金沢だから。金沢聡で、あだ名がサトちゃん」
殺し屋はしばらくの沈黙の末、おもむろに懐から黒皮の手帳を取り出した。そして真顔でそれをぱらぱらとめくり始める。 「――あっ……」 殺し屋は小さく声を上げた。 「さては間違えたな、標的を間違えたんだな!」
ここぞとばかりに追及すると、殺し屋は決まりの悪そうな顔でとたんに目をそらす。 「おんなじことだろうがっ!」 ほれ見ろ。大体おかしいとは思っていたのだ。
――だけど、それで事がめでたしめでたしに終わる……という訳には、いかなかった。 「……なるほど、確かにターゲットはお前ではなかったようだ。だが顔を見られたからにはこのまま帰すわけには行かない」 殺し屋は開き直ったのか居直ったのか、なんと再び僕に拳銃を向けてきた。 「えっ。ちょ、ちょっと待ってそんな!!」 せっかく助かったと思ったのにそんな殺生な! 「悪いがこれも運命だと思って諦めな」 殺し屋はあらためて拳銃を向けると、容赦なく引き金に指を掛ける。
(うわあっ、もう駄目だ!) 僕は今度こそ死を覚悟すると、頭を抱えて固く目をつぶった。 ――ぱんっ 乾いた音が耳をつらぬく。
僕は恐るおそる目を開ける。 そこには色とりどりの紙吹雪がひらひらとあたりを舞っていた。 「――なんてな」 殺し屋は各国の国旗が垂れ下がる銃を片手にニヒルに笑って肩をすくめた。 「俺は依頼に無い殺しはしない主義だ」 迷惑かけたな。達者で暮らせ。歯ぁみがけよ。 男は立て続けにそれだけ言ってあっさりと背を向ける。
「なんだったんだ、いったい……」 熟れきった果実のような真っ赤な夕日を背後に、カラスの群れがまるで漫画のように「アホー、アホー」と鳴きながら飛んでいく。 腰が抜けて立てない僕は、とりあえず佐藤信夫氏とやらの命運を祈ることにしたのであった。
【終】 |
参考文献 「ヒトは、こんなことで死んでしまうのか?」
上野正彦・著
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