砂上楼閣奇譚
++ pandora2 ++

 

 上役には、単に獲物を逃がしたとだけ報告した。
 気心の知れた同僚が「珍しいこともあったものだ」とひやかして来る。
 私はそういう事もある、と答えて笑った。
 笑ってみせた。  
 
 思いがけぬ邂逅の後、気が付けば私はひとり砂漠に立っていた。
 場所は<西の砂海>。
 オアシスすら存在しない不毛の砂地にして魔族の生息地。そして、私が最後に自分の位置を把握していた場所でもある。
 天では月が砂の海を銀色に染めている。それは私が居場所を見失う前に見たのとほぼ同じ高さにあった。つまり、わずかな時間しか経っていなかったということだ。
 訳が分からない。
 いや、頭が理解を拒んでいる。
 私は驚いていた。
 驚愕して、呆気に取られ、そして信じられなかった。
 まさか。
 あの魔族が魔王?
 私はエメラルド色の髪に縁取られた顔を思い出した。
 すべてに対して無関心であるようにすら取れる静かな眼差し。
 何も知らない動物のような無垢な瞳。
 あどけない表情。
 私の知覚から得た情報のすべてがあの魔族が魔王であることを否定する。
 あるいは信じたくないのかも知れない。
 私が知るところによれば、魔王とはこの世に穢れと災厄を振りまくものだ。
 だがアレは、そんなものにはけして見えなかった。
 それどころか、むしろずっと――、
(……いや、口にするべきではない)
 私はかぶりを振った。
 それどころか魔王を目にしたなどと、事実であろうと誤りであろうと、軽々しく言うことではない。
 私は口をつぐむ事を決め、ゼピュロスの本拠地、大神殿へと足を向けた。
 
 
   *  *  *  *
 
 
 ゼピュロス。
 すなわちそれはゼピュロス教のことだ。
 ゼピュロスの民の唯一にして絶対の神を信仰し、ゼピュロスの民の為に神の国を地上にもたらすことを最大の目的としている。
 ここは神に見放された地。神が汚れたこの世を厭うなら、我らが世界を浄化してまわり再び神の恩寵を地上に取り戻そう。
 そんな考えからゼピュロスの信徒は世界中におもむき、穢れを浄化してまわる。
 そしてゼピュロスが汚濁の最もたるものとして捉えているのが、魔物であり、魔族なのである。
 魔族とはすなわち穢れそのもの。だから魔族は抹殺すべきもの。そこには何の例外もない。
 それは絶対の正義であり、人間のためには当然の事。
 
 ―― だが、
 
 
 
 
 
 
(それは本当に、正しいことなのだろうか……?)
 
 
 
 
 
 
 
「どうした、元気ないじゃないか」
 ドン、といきなり背中をどつかれる。
 私はよろよろとたたらを踏んで振り返った。
「……なんだ、おまえか」
 そこに居たのは顔見知りのゼピュロスの僧兵だった。彼はそれなりのベテランで、何度かタッグを汲んだこともあるかなり気心の知れた相手だった。
 ゼピュロス教には司祭や神父といった聖職者のほかに、僧兵や巫女といった役職がある。僧兵は雇われの傭兵などと共に魔族を討伐してまわる。巫女は祭事や神殿の内部業務などを担当するが、腕に覚えのあるものは彼らと共に討伐に加わることもあった。私のように。
 彼はよろめいた私を驚いたように見て、さらに顔をしかめた。
「お前、本当にどうかしたんじゃないのか。この間魔族を取り逃がしたとかいう時から様子が変だぞ」
 堅苦しい気質の者が多い神殿関係者の中でも珍しく気安い性質の彼は、飄々と私を励まそうとしてくれる。
「失敗を気にしてるのか? だがそんな細かいことまでいちいち気にしていたら身が持たないだろう」
 何よりお前は巫女長なのだし。
 体を壊したら元も子もないぞと言う彼に、私は苦笑して見せた。
「違う、そうじゃない。私は失敗なんか気にしない。これでも自慢じゃないが魔族を殺し損ねたことも一度や二度じゃきかない」
「そりゃ確かに自慢にゃならねえな」
 彼もおどけて苦笑する。
 だが――、
 私は顔を伏せる。私は分からなくなっていた。
「……なぁ、どうして魔族を殺さなきゃならないんだ?」
「お、お前そりゃあ……」
「魔族はこの世の穢れだからか? だがそんなこと誰が言ったんだ。魔族を殺すことで本当に世界が浄化されているのか? いったい誰がそんなことを証明出来るんだ」
「巫女長……」
 彼は酷く呆然とした顔で私を見ている。
 気持ちは良く分かる。私は自分たちの存在意義を根底から覆すことを口にしているのだ。
 私は開けてはいけない箱を開けようとしている。
 彼はおずおずと、しかし確固たる意志をもって反論した。
「……それは、確かに分からないな。少なくとも俺には証明できねぇ。だが、俺らのしていることは、魔族を討伐することはけして間違ってはいないはずだ。魔族は人に害をなす。魔族は人を殺す。俺らは人を守る為にも魔族を殺しているんだからな」
「では何故魔族は人に害をなす? それは人が魔族に害をなしたからではないのか。今、各国が競うように魔族の集落を襲っている。先に手を出したのは人の方ではないのか――?」
「やめろっ!」
 彼は悲痛な、あるいは怒りを必死でこらえているような表情で首をぶんぶんと振る。
「もうやめるんだ。ゼピュロスの巫女長。お前は疲れているんだ。だからそんなことを考える」
 彼はしかめた顔を伏せ、真っ直ぐ住居棟の方を指差した。
「しばらく休んだほうがいい。何も考えずにゆっくり寝てろ」
 私は静かにため息を漏らす。
「あぁ。そうだな、わかった。そうすることにするよ」
 悪いことをした。
 私は心からそう思った。
「それからもうひとつ、忠告しておくぞ!」
 くるりと身を返し歩き出す私に、彼は呼びかけた。
「今言ったようなことはもう誰にも言うな。ここでは誰にも理解されない。下手に言いふらせば異端者として報告されることもありうるぞ」 
「ありがとう」
 私はわずかに振り返り、再び歩みを進めた。
 彼の気遣いが嬉しかった。
 忠告に従ってゆっくり休んでみよう。そうすれば緩んだ(ふた)も元通りになるだろう。
 
 
 ――だが。
 そう考える思いとは裏腹に、いつまでたっても私の心が晴れることはなかった。   
 
 
   *  *  *  *
 
 
 まどろむ私の部屋の扉が激しく叩かれた。
「……なんだ」
 重低音の私の声音の所為か、隔てたドアの向こうから一瞬戸惑うような気配を感じた。
 寝起きの私の声は実はかなりドスが利いている。最近は特に寝付きが悪く、慢性的に寝不足だから不機嫌にも拍車がかかっているのだろう。
 目を瞑ると、なぜだか分からないがエメラルド色の色彩が瞼の裏でちらついた。もはやそれは何かの呪いのように。
(おかげで心休まる時がない) 
 寝台から身を起こし、あくびを殺す私の前で扉が開いた。飛び込んできた仲間の僧兵は寝乱れた私の姿を見て顔を真っ赤にし、再び室外へ飛び出す。まあ、神に仕える身としては女性の下着姿を見るなど誉められたことではないだろう。
「お前っ! 何でそんな格好をしているんだっ」
「気にするな。これが私の就寝スタイルだ」
「じゃあ、ノックに返事をするな! むしろ部屋に鍵を掛けろっ」
 ドアの向こうから浴びせられる悲鳴に、私はため息をついて返事を返す。
「それより用事は何だ。こんな時間に私を呼ぶなんてただ事ではないんじゃないか?」
 そんなこと言ってはぐらかすなと、ぐちぐち呟いていた彼は突然硬い声で私に告げた。
「魔族の討伐指令が出た」
「それがどうした」
 私は顔をしかめる。
 私はここのところ討伐には加わらず、ずっと神殿の通常業務に励んでいる。だからそれは今の私には何の関係もない仕事だ。
 だが彼は硬い声のまま続ける。
「対象は灰色の毛並みのウェアウルフ。お前が取り逃した魔族だ」
 私ははっとして扉の向こうを凝視する。
「お前はあれからずっと調子がおかしい。何があったかは聞かんが、この機会にもう一度初めからやり直せ」
 双方の間にしばし沈黙が降りる。
 無言の私に彼がため息をつき、扉の前から気配が消えるその直前、私は答えた。
 是と。
 
 

 

 

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