私は鎧を身にまとい、兜を被る。
そして戦斧の長い柄に手を伸ばす。
幾百もの魔族の脳天を叩き割り、幾千もの魔族の血を吸った戦斧だ。
『戦巫女(いくさみこ)』。
それが私が巫女長として神殿から賜った二つ名だった。
私が戦装束を整え、神殿を出ると仲間たちが駆け寄って来た。
「久しぶりだな。巫女長」
「戦巫女のようやくの復活だ」
口々に掛けられる言葉に私は曖昧に微笑む。
この動乱の時代、身体を動かすだけが取り得のような私が巫女長に選ばれたのも、聖戦の象徴として人々の意気を高めるという思惑があったからこそだろう。
最近になってようやくそんなことにも思い至るようになった。
だが、今となってはそうした他人の視線などどうでもいい。
吹っ切れたわけではない。
わだかまりが消えたわけではない。
ただウェアウルフの話を聞いたとたん、脳裏に浮かんだのだ。
あの、エメラルド色の髪の魔王の姿が。
なんとも自嘲せずにはいられないことか。自分でも分かっているのだ。いくらウェアウルフを追いかけたって、またあの魔族に会えるとは限らない。
だが私にはもうできなかった。このまま、ずっと訳の分からない衝動を抱えたままいたずらに時を重ねることが。
この世には開けてはいけない箱がある。
その箍が今緩んでいる。
だから私は決めたのだ。
ここでけりをつけようと。
* * * *
仲間の一人が言った。
ここに魔族を追い詰めたと。
そこは<西の砂海>に程近いオアシスだった。私たちはオアシスを取り囲むように散らばり、泉をかこむ木々の間に踏み込む。周囲には結界を張って逃げられないよう備えた。
私はそろそろと緑地に足を踏み入れ、あたりを見回す。けして大きくはないオアシス。茂る緑も以前に迷い込んだあの密林に比べればかなり貧相に思えた。
果たして逃げた魔族はどこにいるのだろか。どこかの樹の影で追跡者に怯えているのか。
だがもはや取り逃がすことはない。後はふいを付かれないように気をつければ……。
そう思っていて私の頭上で木が揺れた。
(魔族だ)
戦斧を構える私の前に、灰色の塊が落下する。無骨な刃を振り下ろしかけた私は、だがそのまま硬直した。
(子供!?)
違う。魔族だ。
しかし、前回と違い人の形を取る灰色のウェアウルフはどう見ても幼い子供だった。
呆然とする私にむかい、鋭い爪を閃かしウェアウルフが飛び掛る。
「何をしているっ」
がつん、と容赦ない力で突き飛ばされる。
仲間の僧兵が間一髪で私とウェアウルフの間に割り込み、盾で半獣の子供を弾き返したのだ。彼は私を振りかえり、怒鳴る。
「何を敵の前でぼんやりしている。お前はそこまでふ抜けていたのか!!」
「違うっ、私は……っ」
「子供の姿をしていてもこれは凶悪な魔族だ。もういい。お前ができないなら、俺が代わりにやってやるっ」
転がり咽ているウェアウルフに、彼は槍を振り下ろす。
「待て、止めろっ!!」
私は叫ぶ。
どうしてだか分からない。
けれどどうしたって、私はそれを止めずにはいられなかった。それなのにいま、私の声はあまりにも無力だ。
叫ぶしかできない私の目の前で槍が子供を貫く――その寸前、
激しい突風が吹いた。
叩きつけるような激しい強風に、私たちは耐え切れずごろごろと地面を転がった。
仲間はそのまま気を失う。魔物はいつのまにか消えていた。
息もできないような突風の中、しかし私は顔を上げあたりを見回した。
この風に、私は覚えがあった。
ふいに涙が滲む。
果たして私は、舞散る朽ち葉の間にエメラルド色の色彩を見つけたのだった。
エメラルド色の髪の魔王は、吹きすさぶ風をものともせず真っ直ぐ私の元へ歩み寄る。
「私を殺しにきたのか?」
魔王はしゃがみ込んでいる私の前で足を止めると、かくりと首をかたむける。
ふと風が止んだ。
「殺す? なぜ?」
「私は魔族を、お前の同胞を数え切れないほど殺してきたんだぞっ」
つまり魔族にとってはまぎれもない敵であり、仇なのだ。
「それが?」
しかし魔王は再び首をかしげた。
「魔族と人間は違う。見知らぬ同朋が殺されても、魔族は復讐しない」
それよりも、とエメラルド色の髪がさらりと揺れる。
「なぜこなかった?」
「来る?」
「ボクは待っていた。入り口を開けていた。なのにどうして、ゼピュロスの巫女長はこなかったんだ」
私は顔が赤くなったのを自覚した。
「魔王……」
「芙蓉」
魔王は律儀に訂正する。
「芙蓉……まさかお前は、私に会いたかったのか……?」
「ゼピュロスの巫女長は会いたくなかったのか?」
今度こそ私は言葉を失った。
「そ、そのために、私に会うためにウェアウルフを囮に使ったのか?」
「おとり?」
魔王は首をかたむける。
「そんなのは知らない」
「だが魔族は魔王の命令を聞くんだろ?」
「魔王に従う魔族なんていない。魔王は夢を見るもの。封印の要。すべての魔族の敬意を受けるが、魔族を束ねる主ではない」
やはり訳が分からない。
「ここにはゼピュロスの巫女長の気配を感じたから来た。それだけ」
「あっ」
私は納得した。ゼピュロスの大神殿には結界が張ってある。今このオアシスを覆っているものよりずっと巨大で強力なものだ。あれからずっと大神殿にこもっていた私の存在は、それにより隠されていたのだろう。
「芙蓉、私は……」
首をかしげた魔王の煙った紫色の瞳が真っ直ぐ私を貫いた。
「ゼピュロスの巫女長、ボクを殺したいか?」
私は息を呑んだ。
魔王を殺す。
それはゼピュロスの一族の悲願ではないか?
世界を浄化に導くためにすべての魔族を抹殺する。そこには何の例外もない。例外はあってはいけない。
それが魔王であれば
殊更に。
震える唇から私は無理やり言葉を搾り出した。
「魔族は殺さなければならない。魔王は……、殺すべきだ……」
幼い頃から私はそう教えられてきた。だが、
だけど、
「殺したく、ない……。殺せない」
私の目から、涙があふれた。
私はもう殺せなかった。目の前にいるこの魔王だけではない。多分私はどんな魔族だって殺すことはできなくなってしまった。
私は気付いてしまったのだ。これはたんなる殺戮だ。見も知らぬ相手を悪と定めて殺すことに、正しさなんかないんだと。私の信じていた絶対の正義などこの世には存在しなかった。
それに気付けなかった私はあまりにも愚かだった。
だがもうとっくに手遅れだろう。
私の手は、もうどうしようもないくらいに血にまみれて汚れている。
魔王はそんな私を見下ろしてかくんと首を傾げた。
「なら、殺さなければいい。簡単なことだ」
私は呆気に取られて魔王を見た。
魔王は私に向けて手を差し出す。
「ゼピュロスの巫女長がなかなかこないから、ボクは迎えに来た」
手を取らない私に、魔王は再び首を傾げる。
「こないのか?」
「だって……、だって私はたくさんの魔族を殺してきた……」
「魔族と人間は違う」
だけど、と魔王は笑った。
「ボクは共に居たい」
あぁ、降参だ。
私はうつむくと力を込めて目を瞑った。
駄目だ。もう堪えられない。
私はくしゃくしゃの顔いっぱいに泣き笑いを浮かべると、芙蓉の手を取った。
白くて繊細な魔王の手は人間と同じくらい、暖かかった。
私は箱を開けてしまった。
この世は災厄で満ちるだろう。すべての災いが人々に降りかかるだろう。
だが私は――、
* * * *
ノックの音がして、扉が開く。
今日訪ねて来るという事は前もって聞いていたが、それでも約束の時間よりはだいぶ早い。
返事も聞かず、お邪魔しますとうそぶいて入ってきたそれは部屋の中を見るやに顔をしかめた。
「うわっ、何でこんなに暗いのさ」
そしてかって知ったる様子で部屋を横切りカーテンを開く。陽光でそれの薄茶色の髪と翠色の瞳があらわになった。
「開けるな。薬草を陰干ししているんだから」
私は文句を言って今の自分の商売道具である薬草を日差しの中から避難させる。こうして薬草を調合しては、薬を作り近隣の町に卸しているのが今の私の仕事だ。大した金になるわけでもないけれど、自分の糊口を凌ぐための大事な商売なのである。
「だからって何日も日を遮っていたら部屋にカビが生えるよ」
呆れたように肩をすくめて、相手はてきぱきとものが散乱する部屋の中に自分の居場所を作っていく。
この口うるささは誰に似たんだか。私は自分の息子を見てため息をついた。
もっともこの他人をまったく気に掛けないふてぶてしさは、彼自身の父親に似ているような気もしないでもない。
「それよりも、母さん。もっと嬉しそうにしてよ。言っただろう? 今日はオレの子供を連れてきたんだ」
息子はにっこり笑うと、抱いていた赤子を私の前に差し出す。
「母さんにとっては初孫だよね。ぜひとも母さんに名前を付けて貰いたいんだ」
抱かされると、ずっしりとした重さが腕にかかった。
熱い子供の体温。
深い緑色の髪に、煙った紫の瞳。
ぴかぴかと光る煙った紫の――あの人と同じ色の瞳。
布に包まれて、小さな命はこちらを見て笑う。
災いと共に箱の中に隠されていたモノ。
私の手元には今、それがある。
知らぬ間に、私の口元に笑みが浮かんでいた。
私は『希望』を手に入れたのだった。
* * * *
それは遠い遠い大昔
失われてしまった世界に伝わる伝承
災いの詰まった箱を開けた女、パンドラ
その名の意味は
―――『すべてを与えられたもの』。
<終>
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