松原秋穂(まつはらあきほ)には右手がない。肘から下がきれいに失われている。
願いを叶えることと引き換えに、悪魔にくれてやったからだ。
だから秋穂は左手で絵を描く。
描き上げた絵はすぐに破り捨てるか火にくべてしまう。
左手で描くそれは単なる戯れに過ぎないからと、そういう理由で。
右手をなくして以来、秋穂は絵をコンクールに出すことも展覧会を開くこともなくなった。贔屓にしていた画廊とさえも縁を切った。そうするのが当然のことであるかのように。
そんな秋穂が左手で絵を描く姿を、俺は今もずっと見続けている。
俺、木嶋貴雪(きじまたかゆき)が秋穂と初めて出会ったのは、五限の授業をサボって散歩をしていた初夏の季節のことだった。
その日は薄曇りで、風さえ吹けば蒸し暑い教室内よりも外の方がよっぽど過ごしやすく、寿司詰めの教室で汗をかきながら授業を受けることがあまりにも馬鹿らしかったので、俺は涼しい風の吹く土手をいつものように散歩していた。
一瞬だけ強い風が吹き抜けた時、ふいに足元を黒い日傘が転がっていくのが目にとまった。反射的につかみ取り、周囲を見回す。日傘の後を追うように白い画用紙が数枚飛んでくる。視線をやるとセーラー服を着た後ろ姿が土手に座り込んでいるのが見えた。
届けてやろうなどと考えたのは、そのセーラー服が自分の学校のものだと気付いたからだ。
「ほらよ」
土手を下り、サボり仲間に日傘を差し出す。
だがその女子学生は手を伸ばして受け取ることも、振り返ることもしなかった。いや、例えその気があったとしても、どちらにせよ彼女には手を伸ばして即座にそれを受け取ることはできなかったに違いない。
彼女は紐を取付けた画板を首から下げ、絵を描いていた。左手にはコンテが一本。画用紙はクリップで画板に取り付けられ、右腕で紙の端を押さえていた。肘から先のない右腕で。
松原秋穂、と俺はすぐに相手の正体に気が付いた。
右手を失うよりも前からすでに、この町に松原秋穂の名を知らない者はいなかった。町が誇る天才画家として。
それは歳の割には絵が上手いなどというどころの話ではなく、十代の始めの頃からすでに秋穂は一人前の絵描きだった。
秋穂が絵を描けばすぐさま画商がやってきてその絵を売りに出した。絵は数十万、時には数百万という高値で売れた。
秋穂は自分の絵で生計を立てることさえしていた。
そんな秋穂であるから、彼女がレベルの高い美術部のある私立学校や、美術大学付属の学校ではなく、なんてことのないこの高校に進学してきた時、誰もがそれに驚いた。その理由を尋ねられると秋穂は、「ここが一番家から近いから」とあっさりと答えた。
だが、どんな高名な画家であってももはや秋穂に教えられるような師はいなかっただろうから、それはある意味では賢い選択だったかもしれない。
俺は日傘を差したまま、ずっと秋穂が絵を描く様子を眺めていた。
いや、魅せられていたと言ってしまってもいいだろう。
これまで秋穂の絵を見たことは一度もない俺だったが、確かに秋穂の絵は素晴らしかった。
モノクロの絵であるにも関わらず、その絵は鮮やかな色彩に溢れているように見えた。
どこにでもあるような見慣れた川辺の景色が、驚くほどの臨場感と躍動感を持って生き生きと描き出されていく。それは現実の風景よりもずっと鮮明で美しくあるのにもかかわらず、目の前の風景以外の何物でもない。それどころか絵を見た後にその景色を見れば、現実の景色までもが美しく輝いて見えるような、そんな絵だった。
まるで、魔法のような絵だった。
俺が絵から目を離せずにいるうちに、秋穂は絵を描き終わった。そしてようやくそこで俺に気付いた。
「あら……」
秋穂は振り返ってそう呟く。
俺はどきりとする。それは芸能人や著名な先生など、自分の手にはけして届かない雲の上の人間に幸運にも声を掛けてもらえたような、そんな高揚感をもたらした。
松原秋穂の風体は、どこにでもいるようなありきたりの少女のそれでしかなかった。
顔は極めて十人前。背中の中ほどまである二つに分けて結わいた髪は、脱色をしてないにも関わらず傷んで毛先が広がっていた。
しかしだからこそ、こんな少女がこれほどまでにすばらしい絵を描くことできるということが、目の前で見ていたのにも関わらず俺には信じられなかった。
秋穂はにっと口角を吊り上げる。
「日傘を差していてくれていたのね、ありがとう」
「……あんた、松原秋穂だろ?」
俺は動揺する自分に気付きつつも、たずねる。俺の目は自然と、その右手があったはずの場所へ引き寄せられていた。
昔から有名であった秋穂には良い噂、悪い噂と様々な噂が流れていた。いわく、秋穂は才能と引き換えに悪魔と取引をした。あるいは、秋穂は借金を抱えた両親に無理やり絵を描かされている。大金持ちのパトロンがいる、病気の家族がいる、ゴッホの生まれ変わりだ、などなど。そんな無責任な町の噂の中で、秋穂は重度のスランプにおちいりノイローゼとなって、自分の利き腕を切り落としたと語られていた。もっともそれに関しては、その右腕は事実自分でやったことだと本人も公言していたらしいが。
だが、いま目の前で絵を描いていた秋穂は本当に楽しそうで、スランプどころか喜んで絵を描いていることが俺にもはっきりと伝わってきていた。
「そうよ、あたしが松原秋穂」
秋穂が立ち上がる。そうすると彼女は随分と小さく、俺の胸元までしか背がないことがわかった。
「あなたは木嶋貴雪よね」
そう聞き返されて、俺はぎょっとする。
確かに秋穂と自分は仮にも同じ学校の同級生だが、まさか彼女に自分の名前が知られているなんて、これっぽっちも考えていなかったのだ。
「入学式の時に新入生代表として挨拶してたわよね」
受験番号の関係で無理やり押し付けられた当時のことが、ふいに脳裏によみがえる。自分にとっては早く記憶から葬り去りたい恥ずかしい思い出だったが、秋穂はこともなげに口にした。
「名前が気に入ってたから覚えていたの。あたし、好きなの。雪が」
秋穂は画板から描き上げたばかりの絵を外すと、おもむろに端を口にくわえる。そして何のためらいもなく、いきなり絵を真っ二つに破り捨てた。
「あっ……!」
思わず声をあげてしまったことを、俺は恥じた。秋穂はそんな俺を見上げきょとんとした顔をしていたが、すぐにその理由に気付いたようだった。
「こんなもの、ただの戯れよ」
そう言って、秋穂はイヒヒと笑った。
そんなことがきっかけで、俺と秋穂は知り合いになった。そしてその後もちょくちょく顔を合わせるようになった。
俺の散歩ルートと秋穂のデッサンスポットは重なる部分が多いようで偶然に逢うこともあれば、俺が秋穂を探しに行くこともある。逆に秋穂が俺の側にやってきて絵を描きはじめることもあった。
秋穂はたいてい一人だった。絵を描くばかりの日々を送っていた秋穂には、大人の知り合いは多いが同年代の中に友人と呼べる相手はいなかったらしい。だから俺はここ十年近くの中で久しぶりにできた友人なのだと、秋穂は笑って言っていた。
美術には興味のない俺だったが、俺は秋穂の描く絵が好きだった。だから秋穂が左手で絵を描く様子を、俺はいつも眺めていた。
秋穂は描きあげた絵はその場で躊躇なく破り捨てた。口には出さなかったが、俺はそれを毎回勿体なく思っていた。だが、そんな思いを口にしたら最後、完成した絵をほんのわずかでも見ることができるという幸運を失ってしまいそうで、俺は破かれ細切れになる傑作の、その永遠に失われる様を黙って見ているだけであった。
「なぁ、右手がなくて不便じゃないのか?」
思わずそう尋ねてしまったのは、いつものように作品を残さないスケッチが終わり後片付けをしている最中のことだった。
秋穂は準備から片づけまでの全ての工程において手を出されることを極端に嫌っていた。だからそれらはすべて秋穂が自分の片腕だけで行っていた。
俺も、秋穂の絵を描く行為のすべてが不可侵であるように思えて、手伝いを申し出ることはなかった。唯一の例外は、日差しの強い日、あるいは雨の降っている日に、秋穂に傘を差すことだけだった。秋穂も、それだけは黙認していた。
「もともと両利きだったから」
顎に画板を挟み地面に散らばせたコンテや練り消しを拾い上げながら、秋穂は答える。
「不自由はないわ」
「だから、左手でも絵を描くことができるのか」
「そう。描くだけならね」
秋穂はなんてことないようにうなずく。
「右手で描く絵と左手で描く絵は、そんなに違うのか?」
そこまで訊ねてから、俺は自分の失言に遅ればせながら気が付いた。それは永遠に失われてしまったかつての秋穂と、現在の、それからこの先の秋穂を比べる言葉だった。そして今と未来の秋穂を見下していると、そう捉えられてもおかしくはない言葉だった。
だが、しまったと後悔すると同時に、それが俺の本心からの疑問であることも間違いないと気付いた。
秋穂とすれ違う人の大抵は右腕を見て痛ましげにため息をつく。あるいはあからさまに、何て勿体無いことをと非難する者さえいた。
けれど、秋穂の絵は今だって下手な訳ではない。それどころか、平均から極めて飛び抜けた、見事な絵だと言ってしまってもいいだろう。絵には詳しくない俺ですら、秋穂の絵は素晴らしく、その技量は並み外れていると自信を持って言えるほどだった。
だが片付けを終えた秋穂はおもむろに近付き俺を見上げると、イヒヒと笑う。
「違うのよ」
あっけらかんと、しかしはっきりと秋穂は答えた。
「右手と左手の描く絵は、ぜんぜん違うの」
「じゃあなんで――、」
右手を捨てたのか。途中まで出かけた言葉を俺は飲み込む。それは今更口に出しても何の意味も無い言葉だからだ。
「……そろそろ戻るか」
「そうね」
俺の言葉に秋穂はうなずく。俺と秋穂は横に並び、歩いて帰った。
気がつけば季節は秋に近づいていた。
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