≡≡ 右手を捨てた絵描きの少女 ≡≡


 その日、秋穂は学校には来なかった。たぶん、授業をサボってどこかでスケッチでもしているのだろう。
 秋穂はまともに学校に来ることのほうが珍しかった。去年の今頃も秋穂は長い間姿をくらませていたが、久々に人前に姿をあらわした時にはすでにその腕から右手は消えていた。
 もっとも右手を失ってからも秋穂が特別な人間であることには変わりなく、表立って彼女をとがめる教師はこの学校にはいなかった。

 去年よりも昔、俺は一度だけ学校以外でも秋穂を見たことがあった。その時にはまだ秋穂の両手は揃っていた。
 性質の悪い風邪をこじらせた俺がここから少し離れた所にある大きな総合病院の受付で精算を待っていたとき、偶然秋穂が廊下を歩いてくるのが目に入ったのだ。
 その頃は特に親しいわけでもなかったので声は掛けずにいたから、たぶん秋穂は俺に気付いていなかったに違いない。秋穂は車椅子に乗った顔色の悪い少年と一緒だった。その時の秋穂がどんな表情をしていたか俺は覚えていないが、二人は仲睦まじく、絵筆を手にしていない彼女はどこにでもいるような一人の少女に過ぎないようにも見えた。

 ずいぶん風が冷たくなってきたとは言え、今日は天気も良いし俺もこのままサボろうかなどと考えていると、ふいに背後から声をかけられた。
「お前、まだ松原秋穂と関わっているのか」
 振り返ると、その顔には見覚えがあった。名前は知らない。だが以前に秋穂と校内を歩いていたとき、「なんて馬鹿な奴だ」と面と向かって秋穂を罵った相手だということを俺は覚えていた。
「あんたは……」
「おれは河鍋昌俊(かわなべまさとし)。美術部の三年生だよ」
 河鍋は苦々しい表情で俺を睨んでいた。だから俺も険のある視線を河鍋に返す。
「別にそんなこと、あんたに言われる筋合いはないと思うが?」
「今頃松原と関わっても、意味は無いだろうと言っているんだ」
 俺は眉をひそめる。その言葉は、俺にとっては決して容認できないものだった。
「意味がないなんて、そんなことは無い。秋穂の価値が右腕だけにしかないように言うな」
「右手だけなんだよ、あいつの価値は」
 河鍋はきっぱりと断言する。かっとなった俺は反射的に河鍋の襟首を掴み上げた。
「ふざけるなっ」
「お前は昔の秋穂の絵を見たことがないから、そんなことを言えるんだっ」
 苦しそうに顔を歪めながらも、河鍋はさらに言い募るのをやめない。俺は乱暴に河鍋から手を離す。尻餅をついた河鍋は苦しそうに咳き込みつつ、俺を涙目で見上げた。
「一度、秋穂の絵を見てみろ。そうすれば、奴がどれだけ許し難いことをしたか分かるはずだっ」
「どんなに才能があっても、秋穂の右手は秋穂のものだ。それを本人がどうしようと、他人がとやかく言う問題では無いだろう」
「お前は自分の命なら、粗末に扱おうが自分から手放そうが本人の自由だと考える類いの人間か?」
 俺は釈然としない思いで河鍋を見下ろす。
「それとこれとはぜんぜん別の問題だろう」
 河鍋はつまらなそうに鼻を鳴らし、視線を逸らした。
「秋穂の昔の絵を見ろ。それからじゃないと話にならない」
「なぁ、なんでそこまで秋穂に拘る」
 秋穂がかつての画力を失ってしまったことを惜しむ気持ちは分かる。
 だがいくらなんでも、こうやって赤の他人が親の仇のように秋穂に憎しみの感情を向けることが理解できない。
「お前は何にも分かってない……」
 河鍋は悔しげに唇を噛み、俯く。握り締めた拳は細かく震えていた。
「今の秋穂の絵には、何の価値もない。おれも絵を描くが、おれは自分が決して天才でないことを知っている。だが、秋穂は天才だった。紛れもない天才だったんだ」
 河鍋は顔を上げると鬼気迫る表情で、俺を鋭く睨みつけた。
「秋穂のしたことは絵を描くすべての人間に対する侮辱であり、絵画を愛する人間に対しての裏切りだ。だから、おれは絶対に秋穂を許さないっ」
 そのあまりの迫力に、俺は言葉を失った。河鍋は立ち上がると廊下を走り去る。その後姿を俺はただ呆然と見送った。
 一人の人間をここまで激昂させる理由がかつての秋穂の絵にあるのだと、俺に理解できたのはそれだけだった。


 秋穂が右手を捨て、そしてもう二度と誰かに見せるための絵を描かないと告げた後、見る目のある者は我先にと争うように秋穂の絵を買い占めた。もともと秋穂は自分の絵を取っておくと言うことはせず、すぐに画商に渡し売り払ってしまう。だから今となっては秋穂の右手で描かれた絵を見ることは難しい。
 だがこの学校には一枚だけ、秋穂の絵が残っていた。それは秋穂が学校に乞われて寄贈した絵で、秋穂が卒業するまでは飾ってはいけないという約束で温度調節の効く資料室に大事に保管されているものだった。その約束の理由を秋穂は、「自分の見えるところにいつも絵が置いてあるのは恥ずかしいから」とイヒヒと笑って答えた。
 俺は職員室に入ると、何食わぬ顔で鍵庫に近寄り、資料室の鍵を取り上げた。こうして堂々としていれば、案外気付かれにくいのだと言うことを俺は知っていた。
 鍵を手に入れた俺は資料室に入り込む。そして秋穂の絵を探した。秋穂の絵は油紙に包まれて、大事に保管されていた。
 俺は小さく息を吸い、慎重に油紙を剥がしていく。
 天才と言う称号を欲しいままにしたかつての秋穂の絵。
 それが果たしてどのようなものなのか、現在の絵をずっと見続けてきた俺にはなんとなく想像できるつもりでいた。
 だが、その実物は俺の予想をはるかに超えていた。
 
 それは、この学校を描いた絵だった。
 見慣れた校舎内の風景。窓から明るい日差しが差し込み、生徒たちが楽しそうにはしゃいでいる。それを暖かい目で見守る教師の姿。
 ただ、それだけの絵。それだけの絵であるにもかかわらず、この絵は世界中に存在するありとあらゆる絵とも異なっていた。
 日差しの眩しさに目が眩みそうだった。
 生徒たちの息遣いが、喜びに溢れた感情が伝わってくるようだった。
 教師の慈愛に満ちた眼差しに、胸が熱くなるようだった。
 そのいっさいが調和し、緻密に計算しつくされると同時に、ただそこにあるだけだった。
 それは全ての理解と全ての感動を飲み込み、ただそこにあった。
 
 気が付けば、俺の目に涙が溢れていた。
 一瞬のうちに、何かとてつもないものが去来し、そして過ぎ去っていく。その喪失感が耐えようもなく苦しく、けれど胸の中に残ったわずかな欠片がどうしようもないほどに愛おしかった。
 この絵を一言でいうのならば、まさしく《奇跡》そのものだろう。
 確かに秋穂は天才だった。
 俺ははじめてそれを理解した。そしてこの途方もない才能は、すでに世界から永遠に失われてしまったのだということにようやく気付いた。
 俺は秋穂の、そして河鍋の言葉にようやく納得がいった。
 秋穂の右手で描かれた絵と、左手で描いた絵は違う。それは、どうしようもないくらいに違っていた。


「――そう、見ちゃったのね」
 俺はぎょっとして振り返る。いつの間にか秋穂がすぐ真後ろに来ていた。いや、さらに言えば窓から見える景色は暗くなっていた。一体どれだけこうして秋穂の絵を見続けていたのか、俺は愕然となる。
「秋穂……」
 俺はどれだけ苦心しても、自分の目に責めるような色が混じることを止めることができなかった。
「どうして、右手を捨てたんだ……?」
 秋穂は天才だった。それも並外れた天才である。
 このままいけばきっと、秋穂の名は百年後にまで語り継がれる存在になっていてもおかしくはなかった。
 だがその未来は失われた。秋穂の右腕とともに、永遠に。
「どうしてなんだよっ」
 秋穂は悪戯を見つけられた子供のような、そんな途方に暮れた表情を浮かべていた。
 イヒヒと秋穂は呟くように笑う。
「取引を、したのよ」
「取引……?」
 俺は眉をひそめる。秋穂はこくんと小さくうなずいた。
「ある日悪魔がやってきて、あたしに告げたの。このままだと世界が終わってしまう。だけど、あたしの右手と引き換えにだったら世界を救ってあげてもいいって」
「秋穂……」
 俺は思わず非難めいた声を出す。俺はそんな作り話を聞きたいんじゃない。
 けれど、秋穂は冗談を言っているような顔ではなく、ただまっすぐに俺を見ていた。
「だから、あたしは右手を悪魔にあげることに決めたの。だってあたしが絵を描き始めたもともとの理由はこの世界が好きだったから。この世界を描き残しておきたくて絵を描き始めたのが最初だから。なのに、世界がなくなってしまうというのなら、もう絵を描いたって仕方がないもの」
「秋穂っ!!」
 俺は声を張り上げる。それ以上のつまらない誤魔化しを拒絶するために。だが、びくりと身を震わせた秋穂を見たとき、俺の中にとっさにひらめくものがあった。
「……秋穂。お前のその世界の名は、もしかして……『家族』、なのか?」
 この時ようやく、俺の中で全ての線が繋がった。
 昔から自分の絵で生計を立て、家を支えてきた秋穂。
 描いた絵はほぼ残らず全て売り払っていた秋穂。
 秋穂に関して語られていた数多くの荒唐無稽な噂のひとつは確か、彼女には難病を抱えた家族がいるというものではなかったか。
「病院で見たのは弟なんだな……」
 俺の呟きに秋穂は驚いたようにわずかに目を見開いて、苦笑を溢した。
「なんだ、知っていたのね」
 それなら話は早いと、秋穂は静かな声で語りだした。
「――あたしの弟は重い病気を患っていたの」
 秋穂の年の離れた弟である春樹は、生まれた時から重度の心臓病を抱えていたらしい。病弱で病室から出ることのできない幼い弟に秋穂がしてあげられることは、外の景色を絵に描いて見せてあげること。そして病室に一人でいても寂しくないようにと、家族の絵を何枚も描いてあげることだけだったと言う。
 そうした思いをきっかけに絵筆を握り始めた秋穂だったが、やがて秋穂は絵を描くこと、特に『家族』の姿を描き残すことに躍起になるようになっていった。それはいつ壊れて失われてしまうか分からない自分の世界――『家族』をこの世に繋ぎ止めるための、彼女なりの願掛けであったのかも知れない。
 もともと絵を描くことが好きだったにせよ、そうした必死さが彼女の才能を開花させるきっかけとなったのは、まさに皮肉としか言いようがないだろう。
「だけど弟の容態は年を追うごとに悪くなったわ。それどころかできるだけ早く心臓移植をしてあげないといけなかった」
 様々な要因から国内での施術が難しかったため、必然的に弟の命を救うためには海外での移植手術が必要となった。だが、そのためにかかる費用は莫大なもの。それは秋穂が絵を描くことで得た稼ぎでも、到底追いつかないほどに。
 そんななか、秋穂にとある取引を持ちかけた者がいた。
「つまり、右腕と引き換えに資金を援助すると……?」
 秋穂は、ただ黙ってうなずいた。
 ゴッホをはじめとして、有名な絵描きの絵は本人が死んでから価値が出ることが多い。そうでなくとも、物が少なければその分価格が高騰するのは絵に限らずによくあることだ。
 まだ十代の秋穂。その右腕は永遠に失われ、描かれた絵のほとんどは買い占められ滅多に市場には出回らない。
 今後、秋穂の名が世に知れ渡るに連れて、その価値はどんどん上がっていくことだろう。
 俺は迷子の子供のように立ち尽くしている秋穂の右腕を見る。
「痛くは、なかったのか……?」
 空っぽの袖を左手でぎゅっと掴んで、秋穂はイヒヒと笑った。
「べつに」
 そんな取引を持ちかけられたのは事実。そしてそれに真剣に迷っていたのも本当のこと。
 だが結局のところ、秋穂が右腕を失った直接の原因は交通事故だったらしい。
 辛い選択を目の前に突きつけられていた秋穂の身に起きたその災難は、残酷な神かあるいは優しい悪魔の後押しだったのかもしれない。事故の瞬間、秋穂は刹那の判断の中で右腕を庇うことをやめた。そしてその結果、ほぼ再起不能に近い状態にまで痛めつけられた腕を切り落とすか、あるいは長い時間を掛けてリハビリをするかという選択を医者に迫られた秋穂は、あっさりと腕を切り落とすことを選んだ。
「腕を失った原因の半分は偶然。でも、もう半分は自分の意志でしたこと。たいしたことは、なかったわ」
 はっきりと答える秋穂の声からは後悔の色はうかがえない。
 だがそんなはずはない。麻酔などの処置をしていても、利き腕を捨てる喪失感は他の誰よりも絵描きである秋穂が一番辛く感じていたに決まっている。
 秋穂は当時を思い出したのかわずかに青ざめた顔で、しかしあっけらかんと告げた。
「あたしは絵を描ければ幸せなの。それが上手いか下手かは関係ない。ただ、好きなように絵を描ければ幸せなのよ。だから、自由に絵を描ける今、あたしは幸せ」
 それに弟も無事に手術を受けられたしと顔を上げた秋穂はイヒヒと笑う。
「そうか……」
 俺は小さくうなずいた。当の秋穂がそう言うのならば、俺から言うことは何もない。
 俺は古い秋穂の絵を油紙に包むと、もとのように大切にしまった。これは言わば、もうどこにもいない天才・松原秋穂の形見でもあるのだから。
「秋穂、帰るか」
「ええ」
 秋穂はうなずく。しかし秋穂は突然はっと顔を上げると、まっすぐ窓辺に駆け寄っていった。何事かとぎょっとする俺に、秋穂は嬉しそうに振り返った。
「見て、雪よ」
 窓から外を見れば、白い雪がちらちらと空から舞い落ちてくるところだった。
 秋穂は子供のように目を輝かせて、その様子に見入っている。
「雪は好きなの。雪で真っ白になった世界は、まるであたしのためだけに用意されたキャンパスのように思えるから」
 そう呟くその言葉を、俺は以前にも聞いたことがあった。その言葉は、その表情は、はじめて会った時土手で嬉しそうに絵を描いていた、あの時の秋穂を思い起こさせるものだった。
 だから俺も気付かざるをえなかった。
 しがらみを捨て、天才の右腕を捨ててはじめて秋穂は、誰のためにでもない自由な絵を描けるようになったということに。そして秋穂にとって大事なのは、本当にただそれだけのことであったということに。
「ああ、いくらでも、好きなだけ描けばいいさ」
 右手を捨てた絵描きの少女を縛るものは、もはや何もない。
「あんたが絵を描くあいだ、俺は秋穂が濡れないように、いくらでも傘を差すから」
 彼女の右手が描いた絵がどれだけ素晴らしいものであろうと、俺がいまの彼女が左手で描く一瞬だけの絵を、なにより大切に思っていることに変わりは無いのだ。
 そう言う俺に、秋穂は嬉しそうに笑みを返す。
 俺は彼女の隣に立つと、その大切な左手を宝物のようにそっと握った。
 真っ白に塗り替えられつつある世界は、そこに新しい絵が描かれることをいまかいまかと待ちわびていた。  


【終】

 

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