―― 魔法の鏡はかく語れり ――
第二幕 森の中にもう一人

 /   /  /  /  /  /  / 目次

   場面を戻しまして、愛すべき我らがヘタレこと『白雪』ブラン殿下。
 日がとっぷりと暮れた森の中、火の気が無ければそれはもう真っ暗でございます。生まれたての子馬のごとく、足をプルプルさせながら森の中を進んでいった殿下でございますれば、ようやく川の岸辺にたどり着いたときには腰を抜かさんばかりにほっとなさったものでございます。
「ほらね、僕だってちょっと頑張ればこれくらい――、」
 川辺に着いただけな訳ですから、嘘も誇張も無くまさしくこれくらいのことでございましょう。そもそも水を汲む器すらなく、いったい何をしようというのでしょうか、この殿下(へたれ)。
 それでも空を枝葉が覆い隠す森の中とは違い、川辺には月の光が差し込み星はちかちかと瞬き、まだ周囲が見渡せます。
 心持安心した殿下が河川敷に座って、水の流れがしゃらしゃと月星の明かりをはじいているのを眺めていると、背後からぽきんと枝を踏み折る音が聞こえてまいりました。安心しきっていた殿下の背中につーっと冷や汗が流れ落ちます。
 耳を澄ましてみれば、足音はさくさくとこちらに向かって近付いて来るではございませんか。
 自分の事はさておいて、こんな日の落ちた人気のない森の中。近付いてくるのは果たして怨霊か物の怪か。
 ただでさえ臆病へたれの王弟殿下であらせられますから、もはや頭の中は錯乱寸前。怯えに怯えたブラン殿下は、恐怖のあまりに目も開けられず、それでも起死回生とばかりにすぐ背後にまで迫った気配に、振り返りざま魔法を掛けました。
「光よ、爆ぜろ!」
 ボフンと間の抜けた音がして、ぽてんと何かが転がる音がいたしました。目を瞑ったままでも分かります。魔法はまたもや失敗してしまったのです。絶望に気が遠くなりかけ、ぺったりと腰を抜かしてしまった王弟殿下であらせられましたが――、
「わわっ!」
 真正面から聞こえてきた声に恐る恐る目を開きます。なぜならその声は、少し低いものの紛れもなく――若い女性の声でございましたから。
 そして相手を確認した途端、目をまるまると大きく見開かれたブラン殿下は唖然として問いかけられます。
「君は、いったい――?」
 なにしろそこにいたのはこの国では滅多にお目にかかれない褐色の肌に、太陽のごとき目映い金髪を持った一人の女性だったのです。しかも彼女は背が高く、その腰には勇ましく剣を履いてさえいらっしゃいます。
「いや、そっちこそ……」
 しかしその女性もまた、目の前に突如飛び出した林檎の可憐な白い花に唖然となさっておられます。
 お陰で黙りこくった二人の間には、さらさらと川の流れる音だけがのん気に響いていたわけでございました。




「へえ、じゃあスーリヤさんは遥々砂漠の国からやってきたんだね」
「いかにも」
「わあっ、すごいすごい!」
 無邪気そのものの純粋な賞賛の言葉に、スーリヤの焚き火に照らされた褐色の肌がほんのり赤らみます。
 川辺でブラン殿下が遭遇なさいました彼女は、スーリヤと名乗り砂漠の国からやってきた旅人であると申されました。王弟『白雪』ブラン殿下も自身の名を名乗られ、しかし身分だけは明かさぬままに、家族と喧嘩して家出の最中であると語ります。むろんそれは嘘なんかではございませんし。
「いや、そこまで言ってもらえるほどのものではないよ。今は仲間と一緒ではないけれど、ここまで一人でやってきた訳じゃないし。剣の腕だってまだまだだし」
 はにかんだように答えられますスーリヤに、しかしブラン殿下はぶんぶんと首を振るわれました。
「そんなことないよっ。だって僕は一人じゃ野宿の準備もろくにできないし、そもそも剣だってろくに握れないから持ち歩かせてもらえないし」
 むしろ下手に刃物を持たせると自分の指を切りかねないと、包丁すら一人では使わせてもらえない有様でございます。
 ブラン殿下は自分とそれほど年の変わらない、ついでに背丈もそれほど変わらないスーリヤを眩しい気持ちで見つめておられました。
 一人では何もできない自分とは違い、誰からも面倒を見てもらうことなく一人でしゃんとしているスーリヤは、ブラン殿下にとって憧れの対象でございます。しかも彼女は腰が抜けて立てなくなったブラン殿下を、自分の水汲みも後回しにしてまで甲斐甲斐しくも介抱し、しかも自身の野営地に招待までしてくれたわけですから、まったく頭も上がりません。
 そんな彼女に自分が王弟であるというだけの理由で、逆に頭を下げさせるわけにはいかない。いやむしろ知られるのすら恥ずかしいと、ブラン殿下は身分を明らかにすることができないのでございました。
「いや、しかしブラン殿だって大した物ではないか」
「へっ、なんで?」
 きょとんとするブラン殿下に、スーリヤはくすりと笑って一輪の花を差し出します。それは先ほど怯えに怯えきったブラン殿下が、魔法に失敗して出してしまった白い林檎の花。ブラン殿下は真っ赤になると大慌てでその花を受け取りました。
「な、な、な、なんでこんなもの持ってきているのさ!?」
「そんなものと謙遜することはない。さすがは魔法の王国。素晴らしい魔法だ」
 スーリヤはどこかうっとりした表情で、ブラン殿下の手に移った一輪の白い花を眺めております。
「え、いや、でもそれ……」
「ブラン殿の国では魔法の研究が盛んだと聞く。特に魔術顧問である林檎の魔女ソルシエール殿の噂は我が砂漠の国にまで届くほどだ。ブラン殿の魔法もまた、聞きしに勝るものだな」
 滅多に聞く機会のない自分への誉め言葉に、ブラン殿下は顔を真っ赤にして縮こまってしまわれました。スーリヤの褐色の肌とは違い雪のように白いブラン殿下の白い肌は焚き火の赤い光に照らされてもなお、上気した頬の薔薇色を鮮明にします。
 そんな殿下の様子にスーリヤもまた思わず頬を綻ばせました。恐らく、奥ゆかしくて可愛らしい人だとでも思っていらっしゃるのでございましょう。まぁ、その評価はおおよそにおいて当たっております。足りないのはへたれの一言くらいでありましょうか。もちろんこれは誉め言葉でございます。
「ブラン殿、良ければその花を私にくれないか?」
「え、なんで?」
 きょとんとして顔を上げるブラン殿下に、スーリヤは微笑みます。
「私の国では珍しいんだ」
「スーリヤさんの国には林檎の木がないの? うちのソルシェ……ええっと、メイドが作るリンゴまるまるパイは絶品なんだよ。今度食べさせてあげるね」
 魔法の失敗作である花を人に上げるのは恥ずかしくて遠慮したいブラン殿下でございましたが、そんな風に言われれば悪い気はいたしません。ブラン殿下は少し考えて、こうおっしゃいます。
「じゃあね、交換条件。スーリヤさんは僕のことをブランって呼んでよ。僕もスーリヤって呼ぶから」
 そうしてリンゴの花をスーリヤの髪に差してあげました。
「分かった。ありがとう、ブラン」
 美しい金色の髪に白い林檎の花を飾り、スーリヤはにっこり笑います。その頬は焚き火に照らされて分かり辛いものの、ほんのり赤く染まっているように見えました。
「ど、どういたしまして、スーリヤ」
 一方こちらも再び真っ赤になるブラン殿下。
 そうこうしているうちにお互いなにやら気恥ずかしい思いに駆られ、ブラン殿下とスーリヤは、そそくさと毛布に包まって寝ることにしたのでございました。  


 

戻る / 目次 / 進む